究極の安全

ふと「究極の安全」という言葉がグルグルしているかと思ったら、

「究極の安全とは、究極の信頼」というアイディアがダウンロードされた。

なるほど! と、思って寝しなにノートに記した。

そして、これは、ここに書いておこうと思い、今書いている。

 

究極の安全とは、お金を山ほど蓄えることかなとぼくなどは思ったりしますが、

どうも、世間のニュースなどを見聞きしていると、

億万長者だからといって、お金に不安がないということはないようですね。

どれだけあったって使えば減るし、減れば心配になる。

ざっくりいえば、そうした心理なのかもしれない。

 

さて、ぼくが昨夜キャッチした”究極の安全”とは「究極の信頼」ということでした。

究極に信頼を寄せるのものは何かといったら、

それは私。それは宇宙。それは神的サムシング。

 

そして私は私だし、宇宙も私だし、神的サムシングも私、という風に、

外側の存在ではなく、私とイコールであるものを信頼するということ。

 

ただ、「それができたら苦労しないよね」と、

即座にぼくはそのアイディアを否定したくなったら、すぐに”つづき”が浮かんだ。

 

「常に意識をすること」

 

不安になったら、”究極の安全”というフレーズを、究極の信頼を自分に寄せるということを思い出す。

究極の安全は究極に私を信頼することなのだと思い出し、「究極に自分を信頼する」と意図すること。

 

そこが、ゼロポイントというのでしょうか、過不足のない意識の地点なのだろう。

 

その地点に立ち返ることを繰り返すうち、

それはいつしか習慣となっているかもしれない。

さらにつづけていくと、もはや習慣、癖を通り越し、

おきあがりこぼしのように、自然とその状態になっている自分に気がつくかもしれない。

 

継続は力なり。

単純だけれども、継続していくと、それはものすごい力を発揮するのかもしれないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


元永さん

 

この間、実家に新年会へミッチーと出かけたのだけど、

2歳になろうとする孫のために、母が図書館から絵本を借りていて、

いちばんのりだったぼくたちは、孫よりも先に絵本の束からこの1冊を抜き取り見た。

なんとすてきな絵!

 

元永定正さんという方の絵だそう。知らない人。

ちょっと興奮、高揚して元永さんの絵をぱしゃぱしゃ撮った。

 

元永さん、どんな方なのだろう? と検索。

なんともすばらしいインタビュー記事を発見。

http://www.mammothschool.com/2011/11/motonaga-sadamasa-interview/

 

元永さんが谷川俊太郎さんとつくったこの絵本のタイトルは忘れたけれど、とてもとてもすてきでした。


noteをはじめた

思いたって、noteをはじめてみました。

nomurakouheinoという名前でやっています、さっきから。

 

どうもぼくには言葉を大量放出したい傾向があるようで、

ここにそれを書いたっていいのだけど、それは自由なのだけど、

ぼくにとってのこの場所は、そういうものとはちょっと違うのだよね。

なんというのだろうか、ちょっと文章を書くにあたってアクセスしている場所がちがう感覚がある。

大人の自分ではあるのだけど、ポエムの自分というのだろうか、

そういうところとつながって書いている気がする。

 

noteは、たったのさっき始めただけだから予想だけど、

ぼくの思考の整理というか、それこそ部屋でノートにぶつぶつ書くようなものを、

外の世界、自分ではない誰かと結びついているスペースでやることが、

ぼくにとって新しい風、回路となるような気がしている。

 

毎日たくさん書くようになるかもしれない。

もしご興味あったらのぞいてみてください!

 


So HAPPY !!


A Happy New Year

 

はじめまして2020年。

そして、残り365日なのですね、2020年。

 

今年はどんな年にしたいかな、と自分的大掃除をしながらぐるぐるしていた師走。

ありがたいことに、積み重なった出来事や誰かの言葉がある日に発芽する種子のごとく、

ぼくのもとに行動としてのいくつかのアイディアとなりふいにやってきた。

それは何かということはここに書かない。

書かずに動くことにする。

そういう年にしようと思う。

 

本年もお付き合いいただけましたらうれしいです。

どうぞよろしくお願いします!


ふと、光

やりたいことはやりたいでいいのではないかな。

かくかくしかじかでやりたい、というのではなくて、

やりたいからやりたくて、やる。

 

だって、それをやりたいのだもの。体験したい。あじわいたい。

そう思う人として生まれているのだったら、その理由や意味は誰かにわかってもらわなくていい。

 

好きなことは好きでいいし、なぜ好きなのかを説明できなくたってかまわない。

それを好きじゃない人と議論して、戦ったり争ったりそんなことはしなくたっていい。

 

さっきふと、寒いような寒くないような夜の庭でそう思った。

 

 

この歌、好き!


追伸

もっともっと書いていこうと今日思った。

いろんなきっかけはあるのだけど、

先日知り合って、先日個展を見に来てくれてカレーを一緒に食べたカナイくんのzineがすばらしくって、

そして、共感といったら、失礼かもしれないけれど、

わかるなあ、ああ、その感じをぼくも知ってる。

ということがそこには綴られていて、

彼がそれを綴ってくれたことによって、ぼくは思い出すことのなかった子どもの頃の痛みを思い出して、

それを思い出した瞬間に、瞬間的に切ないような哀しいような感覚がやってきて、

大人の、今日の自分は、かつての自分をやさしく包むような気持ちで想った。

そのプロセスは「癒し」だと思う。

 

ぜんぜん耳ざわりのよいことは書かれていなくて、

ヒリヒリするようなことが書かれているカナイくんのzineにぼくは癒された。

あ、そうか、と思った。

ぼくも、なんというのかスピリチュアル的な部分に向いている自分とは別に、

この人生で体験してきた、味わったたくさんの痛みがある。

その痛みを通過し消化、昇華した自分がいる。

そういうことを、もっと書いていこうと思った。

 

ぼくは、もっと書きたいのかもしれないとこの頃、思っている。

来年は、絵の展示のお話が初夏にひとつ、春先にまだお話しだけで決定はしていないもの、

それから突如昨日、さらっと提案してもらったすてきな壁での展示は、

ぼくがやりたいという意思を再度そこを訪れて伝えたら、すぐにでもできるのかもしれない。

 

けれど、はっきりと決まっている絵の展示は初夏にひとつ。

文章の数ヶ月の仕事がひとつ。

年明けまでのものがひとつ。

 

時間はたっぷりある。

なんか、書きたいな。自分と向き合って向き合って向き合って、書くことをしてみたいと今思う。

明日もこの気持ちはつづくのだろうか。来年もこの熱は健在だろうか?

 


今の自分へのメッセージ

社会のために自分のもてる能力、

それは人に対する思いやりや優しさ、やわらかな心配り、

それを言葉にする才能、伝える勇気、それから好奇心。

その、あたたかくひろい自分に意識をむけて、生きる。そのように在ることを意識する。

 

 

今日に始まったことではなく、

いつからこの流れにあるのだろうかよくわからないけれど、

今、世界はきっと地球規模でおおきく激しく変動しているように感じる。

じっさい自分の日々は相変わらずが半分、思いもよらぬことが半分、

静かな部分と活動的な部分がどのようなバランスかはわからないが、

とにかくどちらもあって、結果動いている。

 

友だちから「今年を漢字ひと文字であらわすなら何?」と聞かれ、

それは次回に話すときまでの宿題にしよう、と言われた。

それから数日、その質問だけが頭にあるものの、考えていない。

 

なんとなく「動」と浮かんでいたけれど、

いま、ここになんとなく自分へのメッセージをアストロダイスに尋ねてみようと思い、

そのまま、この日記みたいなセルフトークをアップしない前提で綴ってみている。

 

やっぱり「動」なのかな。さっき”結果動いている”とぼくは書いたのだし。

でも、そんなこといったら、どんな1年も絶対的に動いている。

あ、どちらかというと今年は「思いもよらぬこと」がよく起こった年だったかもしれない、良くも悪くも。

 

まあ、良し悪しは勝手に自分が決めているのだから、

本当の意味では良し悪しなどなくただ起こっただけなのだけど。

 

いま、立ち止まって考えてみよう。

いや、考えるのはあとにしてたゆたってみよう。

 

30秒たゆたって出てきたのは「激」「起」「揺」

 

現在進行形で、個展中のわたしは、とにかく揺れている。

一喜一憂というほどの揺れではないけれど、揺れている。

人の反応や言葉や気配や波動に揺れている。ぼくはどうしたって揺れてしまう。

揺れたくない。不動の、確固たる「私」でいたいのだけど、今年もそのような私にはならなかった。

 

たくさん揺れることが起こった1年だった。

家や生活の領域で揺れることもいろいろとあった。

それは、外で起こることよりも、ぼくにはしんどいことだと知った。

 

外での”事件”は、家に帰ればある程度の距離が生まれ、

たとえばミッチーと話したり、ゴロゴロしたり、

好きなテレビをお菓子をつまみながら見ていたらある程度忘れることができたりもして、offが可能なことが多い。

けれど、生活で起こることは、そうはいかない。

 

猫が1匹死んでしまった。猫のかみちゃんが亡くなるまでのプロセスは、

息がつまるような逃れようのない重さや哀しさに包まれた日々で、

まさか死ぬとは思わないタイミングで彼と別れたその日は、これまでの人生でいちばん哀しくて、

泣きながら、涙をポタポタ流しながらミッチーとたしか蕎麦をすすった。

 

強烈な夜だった。

どうしようもないことに、取り返しのつかないことに、打ちのめされた。

でも、同じような気持ちだろう人が目の前で静かに蕎麦をすすることに、

言葉にできないほどの感謝をおぼえた。

真っ暗闇にも光はある。

必ずセットに光はあるのだと知った。

 

ほかにも、揺れることがいろいろとある年だった。

というかまだ終わっていない。あと8日間ある。

年が変わってもおそらくぼくは生きている。

 

星を勉強し始めたぼくは、今年は序章に過ぎず、大変容のピークは2020年だという認識でいる。

怖い気持ちがないといったら嘘になる。どうなるんだろう?と不安がる自分がいる。

でも、それ以上にあたらしい世界を体験できるだろうことをワクワクしている自分が大きい。

 

今は彼が風呂からあがるのをぼくは待っている。

目の前にはアストロダイスがある。

目に付いた目からもうひとつのメッセージを受け取ってみよう。

 

 

自分が生まれてきたその自分の与えられた、手にしている素材を広げなさい。

そして、そこから生まれるなにかを子どものように無邪気にあじわってみなさい。

それを、気持ちのかよう人たちにかろやかに話してみよう。

 

 

このメッセージは来年の自分ではなくて、今日からの自分に向けられたものと思った。

ミッチーが風呂からでてきた。


22日

 

最近、そればっかで恐縮なのですが、

まあ、いいですな。そういう自分なのです。

ええと、目下やらせてもらっている展示なのですが、

今週は19日と21日と22日におりまして。

 

19日、21日は通常の18:15から在廊するのですが、

22日は、お店のご厚意で、13時〜15時の開店前の時間を展示に開放していただけることになりました。

きっと、ゆっくりゆったり絵やお店の雰囲気を味わっていただけるかと思います。

ちなみにわたくしその午後は、16時までフリーなので、お茶などしましょー。

アストロダイスも持参しているので、ご興味あれば!

どうぞどうぞよろしくお願いいたします。

 

のむら

 


2019冬


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