日記

 

 今は夕方の5時を少し過ぎたところ。外は雨。とても湿気の高そうな午後。家の中が猫のおしっこみたいな匂いで臭い。猫たちは匂いにとても敏感なはずだけど、誰も気にする様子はない。自分たちの匂いだからか。それこそこの家、ぼくたちの暮らし、人生にマーキングをしているのかもしれない。ぼくたちは、もう猫と切り離せない。いや、切り離せる。でも、切り離さない。切り離したくない。彼らと彼らの最期まで付き合う気持ちには微塵もくもりがない。なにを書きたいのではないけれど、書きたい気持ちだけがあって、いつものようにあてもない散歩のようなこの作文。今朝の夢にミッチーのお母さんが現れて、彼女は息子を想ってたしか泣いていた。「帰ってきた顔を見て、顔から表情がなくって辛かった」というようなことを話していて、ぼくもつられて泣いた。悲しいような、暖かいような、不思議な感情で泣いたまま、目を覚ましてもまだ泣いた。おいおいとではなくて、はらりと涙がこぼれた。涙はすぐに乾いたが、ぼくは起きてからもその感情というのか、エネルギーをひきずっている。浸っている。気持ちいいのかもしれない。この天気にぴったりのこの感情が。白か黒で言ったら、必要か不要で言ったら、不要かもしれない。こんなものが何に役立つというのか、そういう気持ちかもしれない。でも、ぼくはこの言葉にならない感情をとても愛おしく感じる。この薄暗い雨の午後。なにもない、鳥だけが鳴いている午後を豊かだと思っている。そう思える自分を素敵だなとうっとりいる。まさに自己満足。でも、それでいいのだろう。自分が自分に満足していれば、自分にやってくるさまざまを必死に選別するのはやめて、ただ流れゆくもの、一度きりの貴重な景色として好きに味わっていたら幸せかもしれない。今日はいつになくセンチメンタル。豊かな午後。

 

 音楽がそうさせてくれているのかもしれない。さっきまで、ブラジル人のアーティストのあまりにも美しいピアノと歌を繰り返し聴いた。その余韻、余波がまだ部屋に残っている。残り香のよう。この、ささやかな物を拡大して、微細なものに焦点を合わせる自分は、詩人のわたし。詩的に世界をみている。いつまでポエマーなぼくは続くのだろう。なにによって変わるのだろう。変わった先のぼくはどんな人なのだろう。それを数分後か数時間後かに体験できることが面白い。自分という入れ物、五感、六感をたずさえた器を死ぬまで知れる、感じ続けられることは、とてつもない。とんでもなく不思議なこと。神秘体験。そしてぼくはその先もあると信じている。死んで終わりではない。死んでも何かがそこには始まるのだろうと思っている。そう希望しているのかもしれないし、そういう「希望」みたいな人間的なものではなく、ただ知っているようにも思う。それこそそんなことは当たり前なのだ、という風に。誰だってみんな本当は知っている。でも、忘れて、眠ってしまうんだろう。眠らなければ人間をするなんてことは、時に耐えられないのかもしれない。こんなことはすぐにやめて、別の世界に帰りたい。そう思ってしまうから、忘れているのかもしれない。

 

 ぼくは最近、死にたいと思うことがない。嫌なことがない。ショックなことや、心が揺れることはあるけれど、「嫌」とはならない。別に達観したのではない。ただ、冷静にみて、そう嫌なことが全く起きない。むしろ、ありがたいことばかりがやってくる。本当にいいんですか? と誰かに尋ねたいくらい。そう思える自分がこの頃のわたし。すばらしい。この状態をできればキープしたいとは思うけれど、そう思い出したら即座に不安になることを知っている。変わらないでいることなんてできないんだよな。それって恐ろしいけれど、恐ろしがっても本当に仕方がないこと。真理だから。猫のこの臭い部屋も、猫が死んでしまったらもう嗅ぐことはできないのだろう。猫たちがいつ死ぬのかをぼくは知らない。


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