nomunoteより

正しい生き方があると信じていた。

”そうあるべき”生き方があると思いこんでいた。

そのように教わった、吸収した(教育、マスメディア的なものより)

 

あるべき姿

 

マス的な社会においては、たとえば高学歴とか高収入とかステータスの獲得的なこと、

結婚して子をもち育てる、マイホームをもつなど。

 

育った家は、そうした意味では”あるべき姿”にそったもの。

ある意味では”ふつう”の家。

うまれた場所がそこであったために、全身でそれを吸収した。

 

しかし、ぼくにはその”あるべき”像にそぐわないものがあった。

たとえば、考え方やセンスみたいなものなら合わせることができる。

自分を殺すことはできる。

けれど自分の同性愛の部分は、おそらくは生まれながらに備わったもの故、

どうすることもできない。変更ができない。

 

で、ある一方、ゲイはカミングアウト、自分で認めることがなければどこまでいってもグレー。

Yes でも No でもないような状態にあれる。

ノンケの仮面をつけて生きていくこともできる。

変更はできないけれど、隠すことはできる。

なかったことにはできないが、押し殺すことはできる。

→25才くらいまではそのように生きていた。

 

正解、正しさは、強い。つよい力となる。

隙がない正しさは、それを向けられ問いただされた者をどこまでも追い詰める。

 

「なんか(感覚)ではわからない」

「なんかということは、自分の掘り下げが足りていない」

「知識が足りない、経験が足りない」

 

人はそれぞれちがう。

生まれた場所(物理的なもの、環境、時代)がちがう。

 

ちがう人間がちがう人生を生きてきて、歩んできて、ある時に接点をもつ。

それが”競争”や”上下”などの価値観にもとづいた出会い場合、マウンティング的なことがおこる。

 

一度の人生で体験できることには限りがある。(AをえらぶとBはえらべない)

ということは、必ず”足りない”部分、見方、捉え方はできる。

巧みな競争心をもつ人は、足りない部分を指摘する。

ひとつの価値観のもとにあると、そこで優劣、上下がつけられる。

 


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