アタシ問答

 3月26日は13時28分。今感じていること、考えていることをここに吐き出してみることにする。そうしないと、落ち着かない。落ち着かないのは、けれどそれこそ世界中のほとんどの人がそうではないかと思う。この状況下で落ち着ける人というのは、まったく情報が入っていない人か、自分や自分の大切な存在を含め、「死」というものを恐れていない人だけかもしれない。ぼくは、やはり、死は怖い。親がコロナに感染して死んでしまうことなどは想像もしたくない。ミッチーが死んでしまうことに耐えられる気がしない。いずれ、やがて、みんな死ぬのだとしても、でも、それを恐れずにはいられない。自分の死はまた別。この世の終わりがすべての終わりだとは目下のぼくは考えていないので、死んだら死んだで問題ないように思っている。だから、自分の死は、大事な人たちの死よりも怖くない。そう思っている。そう思いたいだけかもしれないけれど。

 

 コロナの騒動しかり、さまざまなことには答えが一つではないのだろう。外での活動の一切をやめて、外出をしないことが目下のコロナ収束の方策なのかもしれない。誰が感染しているのかが、リトマス試験紙の色が変わるように目にパっと見えるのだったら、感染している人だけが隔離されていればよい。コロナに一度かかり治った人は再発しないものなのだったら、また状況は違うだろう。でも、聞いた話によると、コロナは一度かかったら二度ならないものではないらしい。何度でもかかってしまうのだったら、とにかく感染者ゼロを目指すより他ないのかもしれない。ひとりでも残っているうちは、また広がる恐れがあるわけで、とにかくゼロを目指さないといけないだろう。

 

 外出を控えよ、とお達しが出て、東京の人がひとりも外へ出なかった場合、それを2週間継続したのちに、少しでも感染の恐れのある症状が出ている人を検査するとして、そうした場合、どれくらいのお店などが潰れてしまうのだろうか。2週間止まるとダメになってしまう生活というのはどれくらいの割合なのだろうか。そして、2週間後に完全に、一気に活動が復活するというのも考え難い。政治家の人たちは、叩かれまくっているわけだけど、実際、この事態の解決策をただひとつ、間違いなく示すことは容易ではないだろうな。だから、政治家の人たちに感謝をおぼえる。そのような重責に耐えながら、おそらくとても忙しく、大きなストレスを抱えながら働いているのに違いないのだから。一歩間違えたら、大きすぎる代償が待っていると考えると、本当にハードな任務だなと思う。

 

 外出を控えるか否か。これは、迷うところ。自分ひとりくらいいいだろう、と思ってしまう。自分は健康だし、コロナ陽性ではないだろう。だから、感染源にはならないから、いいだろう。そう思ってしまう。みんなが活動をやめてしまったら経済的に破綻をするだろうから、この健康できっと免疫力も高い自分は、活動をしていいだろう。そのような考えをしている自分がいる。でも、その考えは、全員がぼくと同じように考えて、まったく自粛的なことをせず、平常時と変わらない動きを見せることの表裏にあるとも言える。表裏というか、みんなが、なんらいつもと変わらぬように動くことを非難できないということ。自分がオッケーなのに、人はダメというのはおかしい。自分だけが特別というのはおかしい。根拠がない。たとえば、活動する自分は、感染を恐れていないとする。だから、いいのだとする。でも、では、自分の愛する人が感染して死んでもいいのか? と言われると、よくない。でも、そういうことだ。自分が活動をすることは、誰かも活動すること。そうすると、コロナ感染者はおそらく減っていかないどころか拡散されていく可能性が高い。だって、感染るのだから。そして、誰に感染し、誰にしないかの法則性は、たぶんまだ発見されていない。曖昧。だとしたら、自分が活動することによって、事態は広がる。と考えると、やはりそれは選べない。

 

 「不要不急」という言葉を初めて聞いた気がするが、一気に毎日のように目にするワードとなった。不要不急は、人に判断されることではない。なにが必要で、なにが不要か。なにが急ぎで、なにが急ぎではないか。それは、人によって違う。ガイドライン的なことは示されてもいいだろうが、でも、最終的な判断は個々人に委ねられるものだろう。政治的に「絶対に禁止」とされ、罰則などが設けられたとしたら、飲酒運転をする人が格段に減ったように、外出する人は急減するかもしれないが、そうすると飲食店などが潰れてしまうかもしれない。でも、感染者がいなくならないと、鎖国状態はつづくかもしれず、そうなると、他の業種はもちろん、さまざまな問題が生まれるに違いない。完璧な答えはないのかもしれない。思うのは、罰則的な強制力はないけれど、「不要不急の外出は避けるように」というお達しをすることは大事かもしれない。その半強制みたいなお達しにより、外出する人がうんと減るとする。うんと減るけれど、「それだと経済が破綻する!」と動く人もおそらく一定数はいる。そのバランスが大事なのかもしれない。0か100かという話ではないのかもしれない。そして、影響力を持つ人たちが、政策に賛否やらを発信することも、良いことかもしれない。何かの意見が良いということではなくて、そのように、喧々諤々というのだろうか、いろんな意見が飛び交うことが自然であり、バランスなのかもしれない。

 

 

 結局、答えはない。正解はない。ひとりひとりが、たくさんの考え方の中から、自分の本心をみつめ、自分なりの「解」をみつけるしかないのかもしれない。そして、その「解」は暫定的でいいのかもしれない。揺らいでよし。ひとつの考え方に固執すると、状況の変わるスピードがとても早い今にはついていかれないのかもしれない。柔軟であること。自分の意見にこだわらないこと。臨機応変性。

 

 この事態のポジティブな面を考えると、そういうことがあるかもしれない。それぞれが自分の頭で考えること。政府や国などに依存するのではなくて、自分が自分のあり方を考え、実行してみること。それがうまくいかなければ軌道修正をすればいい。もっかのぼくは、親がコロナで死んでほしくないから、できるだけ外出を控えようと思っている。エゴイスティックな考え方だけど、経済の危機よりも親の命の方が今の自分には大切(経済の危機が結局は親の死に至るのかもしれないが)。それくらいの視野で生きていることを残念と思う自分もいるが、けれど、それが事実。でも、不要不急に当てはまらないことには、外出もする。なにが不要か不急かの線引きは、自分にしかできない。それは、その都度自分と相談して決めるしかない。しんどいけれど、それが悔いのないあり方かもしれないと今は思う。

 


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