スピリチュアル・レッスンを終えて

 

短くて熱い、濃厚な2月が終わった。

ちょうどこのひと月、友だちに誘われ「スピリチュアル・レッスン」に取り組んでいた。

どんな28日間だったか、短い日記を読み返し、振り返りたいと思えない。

まだ、そうしたい気持ちにならないくらい激しかった。

ただ、そのほとんどは内側で起こっていた。

もしも、外からぼくを観察していた人がいるならば、

うんと地味で静かな月だったね、と思うだろう。

でも、そういうこと。

すべては内側で起こっている。

自分が捉えたこと、わきあがる思考、感情によって”現実”はつくられている。

 

ふー、終わった。と思い、すこし清々しい気分となり、軽い気持ちで本をひらいた。

「光の書」というオラクルブック。

今のぼくにメッセージをください、と念じ

目をつぶって、記号がかかれた石を2つひいた。

 

メッセージは「内なる家」というもので、内観せよ、ということだった。

何世紀も放置していた荒れたその庭を耕せ、と。

 

言葉の意味はわかったけれど、意味がよくわからなかった。

そこでさらなるヒントを求めて、思いつきでネットでタロットをひいた。

「比較」と出た。

深く深くうなずいてしまった。

 

ぼくの心をざわざわさせる大元にある働きは、まさにそれだった。

ぼくは、ほとんど無意識に比べている。

自分と誰かを比べまくって、心を沈ませている。

隣の芝生は青いというように、他人のことは良く見える。

あたりまえだ。

だって、ぼくが見ている誰かの見えている部分は、ほんの一部分にすぎないのだもの。

その人は歯を食いしばり痛みに耐えながら楽しそうに笑っているのかもしれない。

だけどそれを「楽しそう」と見て、

楽しそうに笑えるほどに心身ともによい状態にあるのだなあ、いいな。と捉えてしまう。

 

そして、これは自分の特徴、個性なのかもと思うこととして、

人のよいところにフォーカスしがち、というのがある。

ぼくからしてみると、接する人たちが、みんな輝いてみえる。

すてきな部分やきらめく才能に目がいってしまう。

それは、ある意味では長所。ある意味では短所。

 

感知したその人の輝きを本人にうまく伝えることができたら、

伝えたぼくも伝えられた相手もうれしい、ということはある。

一方、ぼくが「うらやましい」という意識でその人の輝きをみていると、

相手はどんな心地なのかはひとまず、こちらは、自分を不甲斐なく思ったりする。

まさに諸刃の剣。

 

ぼくの比較癖は果たしてどこからくるのだろう?

それは、自己否定からかもと思う。

 

自分を「このままでは不十分」とみなすことは、

何かが欠けている、何かを補わなくては、というモードにさせる。

そうして周囲を見渡し”足りないもの”を探し、検証しだす。

それが「比較」ということの始まりなのではないかと思う。

 

比較癖がなかったら、競争という意識もなくなるかもしれない。

得体の知れない焦りや不安も小さくなっていくかもしれない。

 

では、どうしたら比較癖をアンインストールできるのだろうか?

 

それにはまず「そのような癖をもつ」と、「癖認定」することかもしれない。

「それは癖」という意識をもてば、”自分”というアイデンティティのようなものから、

それを切り離すことができる。

癖はあくまでも癖で、私自身ではない、と。

 

そして、自動的に反芻する”癖”を脱するには、意識的に真逆の癖をつけることだろう。

「自分は自分。人は人。人同士は比べられない」などと、繰り返し、

思い出したら何度でも自分に言い聞かせること。

 

ぼくのこのブログなど、まさにそうだ。

何年も何年も、ほとんど同じようなことをずっと書いている。

長く読んでくれている人から、以前そのような指摘をされたことがそういえばあった。

「前も同じようなことを書いてたよ?」

 

今回で3回目となった「スピリチュアル・レッスン」。

何がどう自分に作用したのかはよくわからないけれど、

華麗にスルーしてきた「比較からの競争の癖」が意識に浮上してきたことでひとまずよしとしよう。

 

 

おわりははじまり。


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