個展前日誌

 

「アタシ問答」個展前日誌

 

 久しぶりにやってみている。なぜだろう、またやりたくなった。言葉に頼っているのかもしれない。頼っている? うん、よくわからないけど、とにかく言葉にして吐き出してみたい気持ちになっている朝。9時45分。治療したばかりの歯が痛む。痛むというかしみる。冷たいものだけでなく温かいものでもしみることに沈む。きのうと今日と、気持ちが沈んでしまうのは、歯のことが大きいのだろうと思った。さきほど、歯医者さんにクレームに近い電話をかけようかと、メラメラした感情があることに気づき、ひとまず、気休めだろうけれどネット検索。「治療した歯が痛む」と入力すると、その原因が歯医者さん側の情報として出てきた。なんでも、治療したばかりの歯は神経過敏になっていることがあるのだそう。なんだ、そういうことか、と即座にすこし気持ちがやらわぐ。そういうことってある。得体の知れない何かというのは不安にさせる。

 

 久しぶりにこうして書いてみて、あの頃はよくもまあ毎日書くことが出てきたなあ、と感心している。今日は、とくに書きたいことも意識としてはまるでないのだけど、ないのだからこそやってみている。こうして考えずにタイプしていくことで、自分の目下の心もとなさを探ってみている。

 

 ミュウちゃんが寝室でひとりクルクルとごく小さい場所を回っている。何をしているのだろうか、相変わらずよくわからない。よくわからないけれど、それは今に始まったことではないから慣れてしまった。そういうこともある。得体の知れないものながら、それをそういうものとみなすと、慣れてしまい、特別の感想をもたなくなるということが。絵を描くということも、ぼくにはいろいろな時期があるよう。4年前と今では何かが変わったように感じている。来月、というか、もうあと一週間くらいで絵を仕上げないといけない段階になっているというのに、今日のぼくはまるで焦っていない。いや、焦っていないと思いたいだけで本当は焦っているのだと、今感じた。焦っているからこそ、焦っているのに思うように動けないことに焦っている。

 

 きのうは午後、数時間アトリエにて絵と向き合う。「向き合う」って言葉がやはりいちばんフィットする。しっくりくる。「描く」という能動というか、自分の手中にある感じがあまりしない。手が勝手に動くみたいな、こっくりさん的なことではないけれど、でも、自分の意思だけで描こうと思っても、迷路に入るような、迷路に迷い途方にくれるような感覚におそわれ、その状態というのは精神的にも途方にくれるというか、ちょっと怖くなってしまう。描けないのに描こうとしているうちに、どんどんと不安や恐れが大きくなってくるのだった。ということで、とりあえず、絵とは毎日向き合うということだけを、とにかくしているこの頃。きのうは、何をしたのだっけ? あ、久しぶりに漆喰を取り出してみて、これまでの絵の何枚かに塗ってみたのだった。塗っていて、思ったのは、自分は、以前やったことを繰り返すことに抵抗を感じるということ。同じスタイルを何度も繰り返して熟練、洗練させたいという願望があまりないように思った。だけども、この自問自答をまた始めてみた。かつてとまったく同じスタイルのことを。なんだろうな、でも、時期というのはあるのだろうな。春夏秋冬のように、その外側の変化によって、たとえば草木が枯れたり芽吹いたりと反応するように、ぼくも自分の理解を超えた何か、外側の要素から、ある周期で同じようなことを繰り返しているのかもしれない。

 

 しかし、まだ答えが出せない。案内状を作るか否か。つくりたい、明日にでもつくりはじめようとある夜までは思っていたのだけど、それに対して「ちょっと待った」というリアクションを人からもらったことにより、そこで立ち止まってしまった。その声には、一理あるというか、その言葉はぼくのどこかにたしかに響いたのだった。響かない言葉は、そのまま流れていくけれど、響いたものというのは、まるで種を植え付けられたように、それ以降も何度もリフレインし、だんだんとその存在感が大きくなったりする。ぼくは、ある型に、いつか自分が「そういうものだ」と決め込んだ形に、よく考えもせずハマっていたのかもしれない。個展をひらくときには、絶対的にできるだけ案内をする、宣伝をする、きてくださいと言う、ということを当たり前と思ってきた。だけど、彼女はそれを「当たり前ではない」というようなことを伝えてくれた。ぼくも、聞きながら、ぼくのどこかはそれに賛同していた。そう、宣伝をしなくてはならないのではなくって、したいからする、ということが自然というものなのだろう。しなくてはならない、という誰の言葉かわからない圧力によってそれをするときに、それは義務となる。働かなくてはいけない、税金をおさめなくてはならない、親孝行をしなくてはダメ、人には親切に優しくするべき。などなど、自分のどこかはこのぼくにたくさんのことを日々求めている。ぼくは、それを、その提案を、鵜呑みにする。「そういうものだ」と、検証もせずに従うことを当たり前として、行動に移そうとする。それも間違ってはいないのだろうけれど、何かがおかしいのかもしれない。そのことによって、自分がいつの間にか苦しくなっているということがある。展示の案内状の作成も、もしかしたら、そのひとつなのかもしれない、と考え出したら、手が止まってしまった。そして、今、ここにきて、このようにして自分と向き合うことをしてみている。してみているが、ただ文字だけが積み重なるばかりで、グルグルと同じ場所をそれこそミュウちゃんのように回っているだけなのかもしれない。どうだろうか。よくわからない。

 

 絵について、今、感じていることは何? ええと、絵を描くことはやはり不思議だということ。何が不思議なのかというと、よくわからないという部分。何を描きたいかが浮かぶこともあるけれど、その完成イメージみたいなものは、一瞬の光みたいなもので、流れ星が流れ落ちるわずかな時間に自分の願いを言葉にできないように、一瞬のひらめきは、一瞬で消え去ってゆく、それが何だったかが、過ぎ去ってしまうとよくわからない。でも、何かがあった、光っていたという記憶はある。その残像のようなものをたぐるように、でも、何をたぐりよせているのかはわからず、とりあえず、ともかく手を動かしてみる。手を動かし続けてみて、目の前の紙やらキャンバスやらの風景が変わっていくことを観察しながら、きっとそこに近づいているのだろう、と信じて、ただただ、手を動かしている。その一連のしていること、作業、プロセスというのは、やはり自分にとっては不思議なのだった。絵以外で、このようなことがぼくの日々、生活にはたぶんない。非常に独特で、ある意味ではスリリング、エキサイティングなことに思う。が、一方、締め切りというか、期日までに仕上げなくては、という責任感というのか、常識的な自分は、その謎のプロセスを怖がっている部分がある。大丈夫だろうか、これでいいのだろうか、うまくいくだろうか、と不安がる。でも、「うまくいく」というのは何だろうか? なにが正解なのだろうか。絵には、すくなくともぼくの描く絵には正解というものがないように感じる。目的地があってないようなものだからだ。バスキアの絵を、ネット越しに見ていて、すてきだなー、と思うけれど、あれはバスキアの絵。ぼくの絵ではない。バスキアのような絵を描こうとすることはできるし、がんばって研究やら研鑽やらを積めば、彼の絵に近づくことは不可能ではないだろうと思うけれど、それって何の意味があるのだろうか、と思う。バスキアが、バスキアだから、あの絵を描く。ぼくはぼくだから、ぼくの絵を描く。

 

 絵は、この度の展示に向けての絵は、自分の当初のイメージから、どんどんかけ離れている。お店には、ひと月前に展示のタイトルと説明と画像を送ることになっていて、「パルス」とタイトルを定め、それをもう伝えたが、タイトルを言葉として定着させ伝えた時点に感じていたイメージと、どんどん描きだした今では、なんだか、まるで違う方向にいっているような気が時々している。なんというか、当初は、もっとバー! と衝動的な、勢いまかせ、エネルギー! みたいな絵になっていくと感じていたのに、ぜんぜんそういう絵が出てこない。むしろ、そろりそろりと手を動かして、水をたっぷりふくませて、そのにじみやらにうっとりとしてみたり、なんだか、どんどん繊細な作業をしたがっている。かと思えば、きのうの後半は、まったくよくわからない、ピンク色の四角をキャンバスに描き加えていて、手を動かしながら、いちおう昨夜時点での完成を眺めながら、よくわからないなあ、と思った。いったい、これが何なのか、言葉にならない。

 

 でも、それでいいのだということを、今回何度も思っている、感じている、考えている。言葉にならなくていいのだということを。言葉にならないけれど、物体としてそこに存在できてしまうことが絵でもあるのだということを、思う。あ、そうだ。そう、先日の、クイア・トウキョウ・フェアーでの平野さんのライブを体感して、感じたことをちゃんと言葉にしておこう。忘れぬうち。あたたかいうちに。彼の歌を生で聴いたのは初めてで、その夜は、ギター1本の弾き語りをしていた。ちいさい空間には、彼の歌声とギターだけが響いていて、ほとんど知らない歌を、はじめてのその人の声を、ムードを、本人をあまりよく見えない場所から眺めていて、なんだかとても面白かった。まったく知らないその人のことを、とてもよく知っているような感覚になったのだった。たとえば、その言葉の選び方、ビブラートというのか、声の出し方とか、音の震わせ方。声だけでなく、ギターも同様で、その、音と、音の出ていない間と、どれほどの時間どのようなトーンで、それらを響かせているかなど、そのすべてが、その彼、平野くんそのものなのだなあ、と感じた。それこそが、アートというのか、自己表現というものなのだろうな、と思った。誰もが誰かにはなれず、自分は自分にしかなれない。ということは「なる」ということは、本当の意味では無理なことで、ただただ、「ある」だけなのだ。その「ある」私というのは、だから、誰も本当には共感はできなくて、それぞれが自分なりに、自分の世界での体感をして、意味づけのようなものをして、瞬間ごとに記憶として定着をさせて、積み重ねて、生きている。表現というのは、そのおすそわけのようなものかもしれない。彼のことは、ほとんど何も知らないが、彼がどのような感覚の持ち主なのか、なにを気持ち良く感じているのか、なにを美しいと思っているのかが、歌を聴きながら、言葉にはできないことだけれど、それこそ体感的に、その間じゅうは、わかるというか、伝わるというのか、共感というのか、共鳴、同調していたように思う。それは、その人の世界の中に、すっぽりと包まれるような、なんともいえない時間だった。ただ、「包まれた」。そういう感じ。

 

 絵も、絵のある風景、展示のスペースというのも、それと近いことが起こるのかもしれない。ぼくを通してあらわれたものを、内側にあったのか、どこかからやってきた通過したものなのかはひとまず、とにかく、紙やらに定着した色や線や形が、絵というものとなり、そこに存在していることで、なんとなく、ぼくという人をそこに感じることとなるのかもしれない。それが心地よい人もいれば、心地よくない人もいて、それは、波動の問題というか、波長が合うか合わないかというだけの話で、それ自体の良し悪しというものではないのだろうと思う。でも、おそらく、バスキアがバスキアの絵を描くように、ぼくがぼくの絵を描けているのか、何かになろうとしている絵なのかという意味での良し悪しみたいなものはあるのかもしれない。「なんか気持ち悪い」というのは、作品のモチーフとか色味とかそういうものではなくて、それを放った人の状態が気持ち悪いということかもしれない。格好をつけている人が表現しているのは「格好良い」ではなくて「格好をつけている」ということなのだ、ということ。見る人が見れば、それこそX線写真のように、すべて見通されてしまうのだろう。

 

 じゃあ、どうすればいいの? どうすればいいのだろうか。それは、ありのままというか、自然にまかせていればいいのかもしれない。そう、別に、「格好をつけている」ということがダメなわけでもない。格好をつけているという自分に気づいていて、それをしているのだったら、きっと、それを指摘されたところで、恥ずかしいこともないだろう。自分の内心というか、下心というか、意図みたいなものを、自分がどこまで把握しているのか。自分が、だから、出てきた“作品”と、どこまで真摯に向き合っているか、ということが大事なのかもしれない。というか、絵を描いたり歌を歌ったり、表現みたいなことを外に向けて放つことの意味、意義として、それをすることを通して、自分というもの、それは目を背けたいようなたとえばダサい自分、すてきなものを模倣して評価されたい自分、イケてると思われたい自分などなど、自分を知る。自分を動かしている力を知ることができやすい、ということがポイントなのかもしれない。利点というか。そうして、それを見た人もまた、ざわざわしてみたり、気持ち悪いなとか感じてみたり、すてきと憧れてみたりなどの反応から、自分自身を知る機会となり得る点が、アートというものの、すばらしい力なのかもしれない。

 

 なんだか、書き出して、吐き出してみたら、すこしだけすっきりしてきた。今日も絵と向き合う活力がわきでてきたような感じがする。そして、何を今更だけど、やはり、この、とにかくカタカタとキーボードを叩き、出るにまかせて言葉をタイプする作業の気持ちが良いこと。すっきりする。今回の個展に向けての試みとして、しばらくこの自問自答も制作のひとつとして続けてみようか。それをしてみたら、たとえば絵のタイトルとか値段とかも、いつもよりもスムーズに出てくるかもしれない。今年最後の個展に、こうした実験を取り入れてみるこの流れは、きっと、すばらしくライトタイムなのだろう。そう思うことにする。

 

 朝。といってもお昼に近い。眠い。いや、眠くはないのだけど、気持ちとしては眠いというか寝たい。寝てしまいたい。とくになにか嫌なことが今日に待っているのではないけれど、なんとも前向きに活動する意欲がわいてこない。どうしてだろうか。どうしてか、と考えたがる自分にも、なんというか辟易。そういう朝。おはようございます。外は雨。だいたい雨だと気分がローになることが常なのだけど、今日は、なんだかフィット。とても心地よく雨の音を感じている。ザーザー降ってくれたっていい。なにせ外出の予定はないのだから。家から数十歩のアトリエは、この雨だとまた雨漏りをしているのかもしれない。うっかり、今日が雨だなどと知らずに、いちばん雨漏りの激しい風呂場に1枚絵を乾かそうと置いてしまったけれど、もう濡れている可能性がある。でも、それも面白いかと思う自分がいる。なんだか、本当に適当な人間。

 

 書くことがないと思っていたし、べつに書きたくもなかったけれど、「個展前日誌」と名付けたのにさっそく昨日はここをスルーしたことを少し後ろめたく思い、とにかく今日はここを開いて、タイプをしてみようとしての今。書いているうちに、このカタカタ作業が楽しいというか、心地よく感じてきて嬉しい。感情というのか、何かが動いたことがうれしい。生きているって感じがする。

 

 凪。止まってしまった。なにも出てこない。

 

 粘っている。うそ。そういうことではなくて、やりたいから、また、まだ書いているだけ。「結果にこだわることなかれ」という言葉が今、ふいに浮かんだので書いてみる。どうしたメッセージ? うん、そう、昨夜ミッチーが録画してあったテレビ番組を見始め、それは「情熱大陸」で、最初は下町の洋食屋の兄弟の回だった。今、その兄弟というか家族のドキュメンタリーを回想して浮かぶのは、弟さんの顔と弟さんの息子の顔がすごく似ていたこと。そして弟さんの父と母の顔も似ていたこと。顔が似ている。とても特徴のあるように感じる顔が似ていることがとても印象に残った私。顔。顔の似ている親子には「血」って思った。そして、明日久しぶりに実家へ行き、兄夫婦も一緒にご飯を食べることもあり、わが一家の顔は似ているのだろうかなどと思った。なんというか、血は争えないとかいうけれど、選んでいるようで選んでいないというか、選べないというか、その家に生まれた時点で顔や体つきや、性格や才能などかなりの枠で“設定”は決まっているのかもしれないな。そして、その設定は、おそらく、本当の意味では自分で選んできているのではないか、などとも思う。根拠はないけれど、なんとなく、そのように感じる。ぼくは、顕在意識のぼくは、そんなことを望んでいないけれど(経済的な状況)、でも、現在の、近年のこのような暮らしをある自分はうんと前から知っていたような気がする。それを「思考は現実化する」というのかもしれないけれど、卵が先か鶏が先か、みたいな話のようにぼくは思う。「そうなっているから、そう思考する」ということかもしれない、と思う。なんでこんなことを考えているのだろう? あ、そう、「結果にこだわらない」という話からだった。この「結果」というワードは、別の「情熱大陸」の人、美術家という肩書きの、ニューヨークで大変活躍をされている絵を描く同じ年の少しだけラッキー池田に似ている、ちょっとセクシーな男性が、「結果を出す」という言葉を密着中にカメラに向けて放っていたことが印象に残ったことから出てきているのだろう。名前を思い出せない、“マツさん”は、10人くらいアシスタントのような人を雇い、毎朝9時から朝礼をしていて、だけど一人の時間も必要だから7時半には出社して、そこでビジネス書やちょっとした自己啓発書を主に読んでいるようだった(アート関係の本よりビジネス書が多いと本人も言っていた)。画面の彼を眺めていて、どうでもいい視点かもしれないが、ずっと、「同じ年には思えない」と思っていた。1976年にマツさんもぼくも生まれ、そして生きてきて、でも、彼とぼくとではいちおう、絵を描くということに目下の貴重な時間という命の一部を注ぐ生き方をしているわけだけど、まるでいろいろと違いそうだ、と感じながら見ていた。接点があるようでまるでないような気がしてならなかった。少なくともマツさんはぼくに興味を持つことはないのではないかな、とか思った。昔から、そういうところが自分にはある。勝手に想像して、妄想して、勝手にふられたようなそういう謎の感覚。いつか青柳に、高校生くらいの時だっただろうか、「野村は木村拓哉に自分が相手にされなさそうで嫌いなのかと思ってた」というようなことを言われ、心をだいぶ見透かされているのだと恥ずかしくなったことを今思い出した。木村拓哉を嫌いと言っていたのかな、あの頃の自分は。だとしたら、それは、好きって意味の「嫌い」だったのだろう。

 

 今日は、どうも、何を書いているのか自分でもよくわからない。とっちらかっている。そういう状態なのかしら、太陽が蠍座にある今年最後の日。明日からは射手座へ移動。ぼくはアセンダントが射手座だから、明日からなにかしら活性化していけるかもしれない。そうだといい。この、ローな感じがつづくとしんどい。


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