11/10 自問自答
不安は、未知への不安。
けれど、すべては起こるように起きている。
ただそれだけのことかもしれない。
あるいはすべては未知、未確定の、オール自由ということかもしれない。
だけど、そのどちらが正しいか、はたまたその両方であるという矛盾。
また、どちらも正しくはない可能性。
そのように、ぼくにはこの世の、人生の真実が、確信的にわからない。
ならば、自分が生きやすい考えを当座の真実とすればよいのではないか。
というか、そうとしか、いえない。
大丈夫。
どうせ、自分には人生のすべてをコントロールできない。
祈ることはできる。願うことはできる。求めることもできる。
けれど、それをしたからといって、すべてがすべて自分の思い通りになることはないのだろう。
もしも、すべてが単純に、自分の思い通りに、コントロール下にあるとしたら人生はハッピーなのだろうか。
1億円がポーンとどうしてだか手に入ったとして、
避けたいことはすべて避け、世捨て人のように家にひきこもって、
とりあえずの安全、安心を得たとして、イコールそれがハッピーといえるだろうか。
避けたいことは、では、何か?
恐いこと、恐れを感じること。
人との関わりは、恐いことではあるけれど、よろこびをもたらすものではないか?
恐いことは、未知のこと。
どうなるのかがわからないことすべて。
たとえば旅だって、ぼくは恐れている。行きたいなんて思わない。
ワクワクたのしいこと、よろこびもあるかもしれないが、
それは行ってみないとわからない。
行ってみて、結果、そのような時間、瞬間があった。そういうもの。
家にひきこもり、不確定な未知を避ける人生には、思わぬよろこびがとても少ないかもしれない。
そして、おそらくたいていの人生には、未知は決して避けられるものではないのだろう。
誰だって、何かしら「最初」の瞬間はある。
未知とは、人生というものにもれなくセットされているものなのだろうと思う。
今、思うこと。未知は避けられない。
つまり未知を恐怖ととらえると、人生、毎日には恐怖しかない。
未知は恐怖とイコールではない。
そもそもことばがちがう。
未知と恐怖は同じことばではない。同じ意味ではない。
未知は未知。
未だ知ることのない次元。
毎日は、実はつねに新しくて、同じではない。
”同じ”とみなした方が心が楽、負担が少ないから、
それに気づかないように心なのか頭なのかが”同じ”とレッテル、ラベルを貼っているにすぎない。
でも、実際、ちがう。
気温も天気も気分も体調もすべて同じではない。
あたらしい今日にあたらしい私が生きている。
明日のことはわからない。生きていないかもしれない。
大切な誰かが死んでいるかもしれない。
それを恐れていてもしかたがない。
究極、人は死をおそらく避けられない。
すくなくとも不老不死の肉体をもつ人にお目にかかったことはない。
本などでも、肉体には期限があるというものしか目下は出合っていない。
恐怖を避けるのではなく、自分の恐怖を手なづける。
恐怖を見て見ぬふりをするのではなく、あることを認めて、
今しているように、それと向き合って、
恐怖している自分と向き合って、恐怖している自分を知って、恐怖する自分に居場所を与えて、
恐怖する自分とともに生きていけばいいのではないか。
おこることはおこるのだ。
それは、おこるべくしておこる。
やれることをやって、あとはリラックスをして、リラックスを自分に与えて生きる。
自分を信じる。
自分がこの人生の主なのだから、
自分にとっての真実、このぼくの人生においての本当に本当の真実は、
もしかすると自分の中にしかないのではないか。
他の人の発するものはすべて、その人の人生において有効なもの。
主人公がちがうのだから、その人それぞれによって、有効なものは異なっていてもおかしくはない。
むしろそのほうが自然かもしれない。
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