顔や顔

 

 

 テレビで、堂本剛の顔を特殊メイクの人が堂本剛と似た顔の形、体型をもつ人にほどこしていて、似非堂本剛をつくっていた。そして架空のトーク番組に彼を登場させ、司会者の反応をみるという実験のようなことをしていてすごく面白かった。けっきょく、司会者であるしずちゃんは気がつかなかったわけだけど、それに対して山ちゃんはショックを感じていたようにみえた。なぜ気がつかないのか。というか、似せるというのはどういうことなのか。それを受けて本物の堂本さんは「彼の、努力がすばらしい」ということを言っていて、その感想をすてきだなと思った。顔だけではないのだな。ぼくは、それを見ていて、まず声というものの大きさを感じた。声というのは、ものすごくその人自身を表すものだと思った。声というのは、響き。それには声帯やなにやが関係しているのだろうが、その物理的というかそうしたものが要素としてはあるのだろうが、言葉を発するその心のようなもの。その言葉を選ぶ感覚、その言葉を発するトーン、そのときの仕草、姿勢など、それをよしとする、それら複合的な要素によってあらわされること、状態が、話す、喋るということなのだな。だからして、似せる時には、その人の思想というかその人自身を知ろうとし感じることがとても重要なのだと思った。そのことへの努力を堂本さんは感じて賞賛の言葉をおくった。それは、演技をするということ。演じるというのは、そういうことなのかもしれない。演じる際には、自分のセンスや感性などを横におき、演じるその役柄のそれに身を預けることなのかもと思った。そして、人は、みな演技をしているということでもあると思う。その人が、理想とする自分というのか、あらわそうとする自分を表現しながら生きている。つまりは変幻自在ということ。どのような人にでもなれる。けれど通常、これまでの蓄積が習慣として残っていて、それを踏襲することによって昨日と同じ自分を自らがつくっているということなのだと思う。もし自分が気に入らないのであれば自分があたらしい自分になってしまえばいいのかもしれない。過去の自分が自分として思い、構築した私を捨てること。それができれば、自分は一瞬で変われる。記憶喪失におちいった人というのは、それまでと肉体は同じでも、過去の蓄積がもしもリセットされていたら、別人のようになってしまうものかもしれない。けれどそこには、肉体の癖、しみこんだ動きが影響を及ぼすことはあるのだろう。立ち方とか座り方とか動きかた発声の仕方など、体が主体となり自動的にそのようになる、する。そういうことがあり、昨日と同じ自分が努力することなしに再現されていく。

 

 人が人に対して魅力を感じる、好感や嫌悪感をもつ際には、顔だけではなく、その人の全体をみて、感じて、受け止めて快不快をキャッチしているものかもしれない。表に放たれるものは、まず裏というか内側にあるものなのだろう。そう考えるとやはり、精神や肉体を磨く、自分が美しいと感じる状態に近づけることが外側に放つものを決定するのにちがいない。まずは内から。


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