あたらしい問答

 おはよう、私。おきた。目が覚めた。9時25分。ひさしぶりにこの問答をはじめたくなったのではじめた。絵にこだわることはないと思った。絵は描きたいから描いているのであって、描きたい衝動がないなら別に描かなくてもいい。そして、映画をDVDで借りて観るのがたのしいこのごろは、それをたのしめばいい。暇だから、時間があるからそんなことをしている、と、どこか罪悪感というか背徳感のような感覚にしがみつくことで平静のようなものを保っていた気がするが、そんなものは必要ない。だってぼくの人生なのだもの。いつまでも、40歳を前にしてそんな大学生のようなことをしていてはいけないと思い込んでいたけれど、したいことをすればいいのだ、誰に言い訳することもなく。今日もDVDを借りようと思う。返すついでに次を借りよう、あきるまでそうしよう。
 
 きのう観た「トラッシュ」というアンディ・ウォーフォールがプロデュースした映画が衝撃的だった。借りたきっかけはインスピレーションなのだけど、その根底には主役の男の子の裸をみたいという心があった。かつて彼が主役の「ヒート」という映画で、その裸体に魅せられた記憶がうずいた。ぼくは、そのように男の裸のために映画を借りて来た人生なのだ。「トラッシュ」はゴミという意味らしい。そんなことも知らなかった。映画を観終わってから、インターネットで感想をしらべたら、ゴミ、屑、と、タイトルの意味を知った。そして、この映画の出来をその言葉通りだと書いている人がいたが、ぼくにはまったくそう思えなかった。主人公の彼はジャンキーで、アヘン中毒者だった。その彼が、セックスを、フェラチオをされるシーンから始まる。そのフェラチオのされ方からして面白い。彼のお尻が大写しになったりするのだけど、お尻には赤いできもののようなものがいくつもあり非常に生々しく魅力的だった。リアリティというのを感じるのは、そういう完璧じゃなさかもしれない、ぼくにとっては。その他のシーンでもカメラワークというのがぼくの心に響く。ちくびや、脇などを微妙な距離でとらえる。それは、監督の目のような撮り方に見える。目になった。その目線はぼくのそれと近いというか共感できた。美しいと思った。
 
 ジャンキーというものにこれまで全然興味がなかったということを、ジャンキーに興味をもったことで知った。ジャンキーというのは究極の快楽主義者かもしれない。究極のSM。人生をかけたSM。みんな、そうなのだろう、人類はみなSMをしている。ある快楽と、不快楽。快楽が快楽であるためには快楽じゃない時間が必要という快楽。映画は、男の行きずりの、行き当たりばったりの生活が描かれている。金目のものを盗みに入った家で主である夫婦の妻にみつかり、なにをする気? と詰問される。男は正直に答える。うちには安物のラグとクッションしかないと女は言う。あなたはジャンキーと聞く。男はたいへん男前で、顔も体も美しい。魅力的なのだった。女はすぐに興味をもち、男とセックスをしたいと思い、まわりくどく誘う。このまわりくどさは彼女の生き方をあらわす。やがて夫が帰ってくる。夫婦はジャンキーを見下し、遊び道具として使いはじめる。男前のジャンキーというのはある意味究極的だと思った。お金が欲しいのはヤクを買うためというジャンキーは、およそそれ以外のことに関心がない。社会性がない。ふつうに生きている人へプレッシャーを与えない。もうろくしているジャンキーは恥じらいというものがない。セックスをお金に替えることもレイプもまるで抵抗なく行なう。罪悪感や羞恥心がない人を前にすると人は本性をあらわせるのかもしれない。それは、ベクトルやあり方は真逆だが、神というか神様に近い存在ともいえる。仏陀やキリストはその存在で、その人のそばにいるだけで覚醒させたなどという話を見聞きしたことがあるが、ジャンキーの存在もそれに近いと思った。本性をあらわす男女は、ジャンキーを「最低」と罵れるような人間ではない。けっきょくセックスをしたい、快楽を求めている女。女の本性をかぎとりながら社会的な仮面がへばりついてはがれない男。どちらも最低といえば最低。同じ穴のむじな。人は、かっこつけたって、やりたいのだ。楽しみたいし、快楽を求めたい。でも、それに没頭することは怖くてできない。失うものが多すぎるのだろう。失いたくないのだろう。映画を平日の昼間に横になって観ながら、ぼくはジャンキーと自分はほとんど変わらないように思え、おそろしくなった。今の毎日というのは、社会性がほとんどなく、その日暮らしで、自分のしたいことを中心に生きていて、ジャンキーと変わらないと思った。なぜ毎日自分が掃除機を家中にかけているのかがわかった。掃除をすることで、瞑想をすることで、お風呂に入ることで、そうしたやってもやらくなてもいいことで自分を保っているのだと思う。知らなかった。したいから掃除をしていると思っていた。でも、したいと思う衝動の根底には、そうした恐れがあったのかもしれない。そんなことがその映画を観てわかったことがすばらしい。映画は鏡になるのだ。
 
 もう一本「すべての些細な事柄」というどこかの国の精神病院というか、精神を患った人たちの療養所を撮影したドキュメンタリーを観た。淡々と、わかりやすい意図を感じさせず人々を撮っていく流れに、しばらくは退屈した。この映画は無理かもしれないと思った。でも観ていくうちに、そこに映る人たちに愛着のようなものがわいてきて、彼らがとてもかわいく、魅力的に見え始めた。さらに観ていると、彼らと自分が変わりないように思えてきた。彼らの、オープンというか、そのまま、という感じの表情や動きや言葉は、ぼくを安心させる、ということがわかっていった。なんだか泣きそうな気持ちになった。ほんとうは、ぼくもこういう人々に囲まれて、こうした安全で安心な場所で生きたい、と思っている自分に気がついた。他人事に思えなかった。映画にはとりたててストーリーはない。施設の寄付を募るためのお祭りで劇を上演する日が映画のクライマックスにあるのだが、その日の様子も淡々とおさめられていた。そして劇は終わり、祭りの後を掃除する場面がうつる。パーティーは終わった。なにごともなく新しい1日が始まった。人生はつづく。そういう感じ。映画の最後にひとりの男性が、カメラに向かって話をする。自分がこのようになったのは社会のせいだ、と言う。でも社会のよって助けられたとも言う。こういう安心なところにいられて良かった、というようなこともたしか言った。精神病と診断される人というのは、わからないけれど、とても繊細なのかもしれない。あまりにも繊細で、故に傷つくことが多すぎて、社会で生きていくことができない人たちなのかもしれないと思った。弱いのかもしれない。でもその弱さはいけないことではないし、ダメなことでもないし、恥ずかしいことでもない。弱さを認めることができるというのは強いということかもしれない。そしていかに社会が人々へ圧力をかけているかを思った。なにかひとつヘマをすれば職を失ったり、拘束されたり、仲間はずれにされたりしかねない社会。だから社会が成り立つのだと社会人は言うかもしれないが、そこに生きる人たちが不幸であったらその監視社会が存続することに意味があるのだろうか。社会不適合者が集うその施設は楽園のように見えた。もしも社会が、そのように人々が自分でいることを許す場所ならば、世界から精神病院などなくなるのかもしれないと思う。

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