ロバの耳

あかねさんがため息をついた。
ちいさいちいさいため息は私に向けられてはかれた。
その後のことはあまりよく憶えていない。
しっかりと、その日、その場所で私に与えられた、
やってくるお客さんを笑顔で迎え、お水とメニューをだし、
注文をとり、注文を厨房にとおし、配膳し、
食べ終わった食器などを片付けお会計をする、
という役目を果たせたのかさっぱりわからない。
そのあかねさんのため息は、私をそんな風にだいなしにしてしまった。
あかねさん。あかね。あの女。

あの女は、ただ数週間、私よりもこの店に早く面接にやってきて、
私よりも数週間早く仕事を憶えはじめ、
私より数週間、この店に長くいるだけだというのに、
私のことをそうして責める。
責める権利をもっている、という風にふるまう。
私もそれを受け入れる。だって、仕方がないことだから。
けれど、やはり、それはストレス。
あの女は、私と同じ年で同じ大学に通っている友だちでもある。
でも、それは外の世界の話。この世界ではあかねさんは私の先輩。
 
ため息は、
私がいつものように少し
お水やメニューを出すタイミングが遅かったことが原因と想像する。
ただ、それだけのこと。でも、私は、とても落ちこんでしまう。
ちいさいあの空気がもれる音に。
その音をだした、だそうと決めたあの人のその心の動きに傷つく。
あかねさんが嫌いだ。私は、そう思った。
そう思って、心のなかでわら人形をこしらえて、釘をうった。
何度も、何度も、
お水をグラスに注ぎながら、
スパゲッティーを運びながら、
シフォンケーキに添えられた生クリームが残っているのを
横目で確認しながら、何度も何度も。
それは、私にとって仕方がないこと。
でも、もちろん気分はよくない。
あかねさんを心のなかで殺そうとたくらむ私のこの醜さは私を苦しめる。
でも、ほかに方法をしらないのだからしょうがない。
 
帰り道。あかねさんは笑っている。
ふつうに、
今日のお客さんについてああだこうだ、と言いながら、笑っている。
私もそれに頷いている。
あかねさんを傷つけたくないから、ニコニコとそれを聞いている。
でも、ほんとはなにも聞いていない。
あかねさんのつまらない話なんて聞いている余裕はない。
その話と、私はなにも関係がないから。
私の今日のここでの世界にそんな客はいなかった。
ただ、あかねさんと私がいただけだった。苦しい。
笑顔でしらない話を聞いているのは苦しい。
ようやく駅についた。
あかねさんは上り電車にのって彼女の住む町へと帰っていった。
私はホームの階段をおりてふたたび改札をでて、
趣味の悪い人形がたくさん飾られている喫茶店にいった。

「いらっしゃい」
 
いつものまったく愛想のないこの「いらっしゃい」を聞くと落ちつく。
笑顔のかけらもない、心のこもっていない「いらっしゃい」。
そうか、そんな風に、心がこもっていない挨拶が嬉しい人もいるのだ、
と、私は、私の反応を冷静にみつめ、そう思った。

この店はいつもうるさい。
お客の話し声ではなく、
クラシックのレコードが大音量でかかっているからだ。
だから、最初の「いらっしゃい」も本当は聞こえていない。
ただ、口がそう動いているのをしっているから私にはそう聞こえるだけ。
 
「アイスティーを」

こちらも無愛想に頼んだ。
ああ、癒される。
ロボットみたいに愛想なく言い放てるこの解放感がたまらない。
注文したアイスティーはすぐにやってきた、
とても趣味の悪いグラスに注がれて。
 
アイスティーをとりあえず一口飲むと、
私はたのしみにしているあのノートを探しに席をたつ。
この悪趣味な喫茶店はさらに悪趣味なことに、
ださいペンションにあるような、
お客たちが好きなことを書き込めるノートがある。
私はそれを何の感情もないようなふりをして素早く手にし、席に戻る。
 
10月9日。あの女がまた私をバカにするようなため息をついた。私はだから言ってやった。あんたのため息、臭いんだけど。昨日、何食べたの? その匂いこそお客さんに迷惑なんじゃないの? って。女の顔が真っ赤になった。リンゴみたいに真っ赤かに。だから私は言ってやったんだ「リンゴちゃん」って。
 
私はとても饒舌に、ペンをはしらせる。
気がつくと時計は11時の針をまわっていた。
「そろそろ行かなくちゃ」。
そう、いつもの締めくくりの言葉を書いて、
ノートを閉じて、元の位置に戻した。
 
家では猫が待っていた。
ニャー! と、うるさく私を呼びつける。
餌が欲しいことはわかっているのだけど、その鳴き方が気に入らない。
あんたまでどうしてそんな風に私に偉そうにいうの!
猫は一瞬、私の剣幕に驚いた様子を見せたが、
またニャーと怖い顔をして鳴いた。
 
あかねのことはもう忘れた。と思っていたけど、また思いだしてきた。
テレビを見ていたら、あの女のような化粧をしたタレントが
調子のいいことを言っているのを見て、一気に思いだしてしまった。

テレビはたのしいときもあるけれど、たのしくないときもある。
テレビから流れるニュースやドラマやその他もろもろ、
ただ、ぼんやりと眺めているといつの間にか
テレビを見る前よりも
何倍も気持ちが沈んでいることに気がつく日がある。
子供のころ、
親からテレビは「1日2時間」と言い渡されていた私にとって、
テレビは贅沢な娯楽だった。
だから、無条件に自分をたのしくしてくれるものだと思いこんでいた。
けれどどうやらそれは違うみたい。
流れてくるCMだってうっかりしていると私を傷つける。
「そのお腹のお肉、大丈夫〜?」とか
「ガンになったときのこと考えてる?」とか、
お嫁さんにしたい人ナンバー1みたいなタレントがかわいい声で、
満面の笑みでたのしげに呼びかけてきているけれど
言っていることただのは呪いの言葉じゃない? と思う。
さっきまでたのしく果物なんか食べたりしていた気分が台無し。
あ、この果物の糖分で病気になるかも。
あ、病気になったりしたら入院代どうしよう?
休学したらいくらかかるんだろう?
バイト先にも迷惑かかるよな、今、人が足りないのに。
もう、あの果物をおいしく食べていた時間には戻れない。
でも、テレビはそんな私の時間に責任はとってくれない。
もう、あのCMはとっくの昔に流れてどこかへいってしまった。
 
私はもともと笑顔が上手につくれない女だ。
面白くないことをニコニコと聞けるような女ではない。
だから友だちも少ない。
携帯電話のアドレスには数百人の名前があるし、
毎日たくさんのメールをもらったり送ったりしているけれど、
私のことを本当にしっている人はほとんどいない。
ただ、ゼロではない。
小学校からの友だちのかの子は、私のこの汚い、
闇のような部分をしってくれている大事な存在。
でも、かの子は今、ここにいない。イギリスに留学中だ。
だから、あの頃のように、無敵、と思える心強い毎日が今は送れない。
かの子は元気だろうか?
 
今日は大学は休み。いや、休みにしている。
2限が本当はあるのだけど、ダイヘンをお願いしている。
4人でローテンションしているので授業に出るのは月1回でいい。
でも、私、なにやってるんだ? 
そんな真面目な私は今はお呼びじゃない。
バイトに行かなくてはいけないから。
あと1時間で家を出ればギリギリセーフ。
さあ、今日はなにを着ていこう。
火曜日は、私の好きな裕介さんがキッチンにいる日だ。心がはずむ。
裕介さんはとにかく優しい。
昔、いじめにでもあったことがあるのでは? と
想像させるほどにいちいち言葉が優しい。
私は、裕介さんがいるからあの店で働いているのだと思う。
もし、いなくなったら? と考えると
目の前が暗くなるくらいに頼りにしている。
なのに、今日は、なんと裕介さんは風邪で休んでいた。
私は全身の力が抜けるのを感じた。でも、バイトをやめたわけじゃない。
大丈夫、大丈夫。

あかねさんがいない日は問題がない。
あたりさわりのない穏やかな時間。
お客さんもあまりこなかったので楽だった。
いつもこんな感じに過ぎていけばいいのに、と、思う。
でも、そうはいかないこともしっている。
あかねさんがいるからだ、この店には。
あかねさんと私は学年がいっしょだから、
このままどちらかが留年したりしなければ一緒に社会にでる。
就職活動の話もきっとこの店で、仕事のあとやなんかになされるだろう、
と考えると胸がざわざわする。
こわい。こわい。あかねさんがこわい。
 
私があかねさんを怖くなったのは、3ヶ月まえのあの日だ。
あの本当に忙しかった日曜日の午後、
みんなの前で私のことをヒステリックにしかったあの午後3時。
私は初めてのちゃんとつづいたこのバイトを
好きだ、と思いかけていた頃だった。
仕事もだいぶ憶えて、後輩もできて、
自分のなかでイイ感じになってきたところだった。
なのに、そこへ、あの女が、私のことを怒ったのだ。
「もう! ありえないから!」って。
ただ、それだけのこと。
あかねさんに悪気はないんだよ、って裕介さんも言ってくれたし、
私もそう思ったし、
あかねさんだって「今日はごめんね」って謝ってくれたけど、でも、
私はどうしても許せない。どうしても心がひらけない。
そのことが辛い。そんな私が許せない。
あ。また、このループにはまってしまった。
 
火曜日は、いつもは裕介さんと店が終わったあとに喋るのだ。
音楽をかけながら、ビールなんかもちょっとだけ飲んだりして。
でも、今日はいないからすぐに帰ろう。
と、思ったら、店の電話がなった。

「もしもし」。

ドキドキしながらあまり鳴らないこの店の電話をでると
あかねさんからだった。

「もしもし、由子ちゃん? あかねです。そこに裕介くんっている?」。

私は動揺してわけがわからなくなって
「いません!」と言って電話を切ってしまった。
するともう一度電話がなった。
今度は動転する私に気づいた浩二くんが電話にでてくれた。
「なんか、ちょっと酔っぱらってて。気にしないで。こっちは大丈夫だから」

というようなことを言って、
裕介さんが風邪で今日は休みで自分が代わりに遅番に入った、
というようなことも伝えて電話をきった。
 
「どうしたの? 大丈夫?」
 
ちょっと怖いものにふれるようにこわごわ私に近づいてきてそう聞いた。
私の張りつめていた糸が切れた。
あかねさんが怖いこと。そんな自分が許せないこと。
でも、どうしてもふつうに接することができないこと。
心のなかで何度もめぐったその負の連鎖について
一つずつすっかり浩二くんに話してしまった。
こんな風に同じ職場の人にあかねさんのことを言ってしまったことを
早くも後悔しながら私はうつむいて黙った。
 
「へー、そうなんだね。でも、わかるよ。俺もあるし、そういうこと。あかねちゃんにじゃないけどね、学校の友だちとか、地元とかでもそういう、なんていうかどうしてもダメな奴っているからさ。普通じゃない?」
 
「え?」。思わず聞き返した。
それがあまりにも予想外の答えだったし、
予想外の浩二くんからの言葉だったから。
 
「音、うるさい? ごめん、ちょっと下げるね。えー、だから、わかるよ、その気持ち。俺もぜんぜんそういうことあるから」
 
聞き返して、良かった。
やっぱり私の聞いたことは空耳じゃなかったんだ。
 
「ごめん。さっき、ホントは聞こえてた。でも、もう一回聞きたくて。ごめんね。なんか、すごい、ありがとう……。浩二くんにもそんな風に誰かのこと嫌いになりたくないのに自分の気持ちがコントロールできないことがあるんだ? ぜんぜんそんな風に見えないから」
 
「あたりまえじゃん! 誰だってあるんじゃない? いや、わかんないけど。俺も昔、みんなに好かれてる人気者みたいなヤツのことがどうしても好きになれなくて、でも誰にも言えなくて苦しくてさ。それこそ『王様の耳はロバの耳〜!』っていうの、しってる? あの話みたいにもう誰かに言いたくて言いたくてたまんなくなってさ、あるとき酔っぱらったふりして言ったんだ。いや、ほんとに酔っぱらってたんだけど、ふりっていうかなんていうか。そしたら、その俺の告白をきいたヤツがさ『わかるよ』って言ってくれてさ。あんときすげーホッとしたんだよね。思わず、そいつをギュって抱きしめちゃったくらいに」
 
うん、うん、と、声にださずにうなづきながら聞いていた私だって
浩二くんを抱きしめたくなった。
でも、体はそんな風に大胆に動かなかった。
代わりに口が「ありがとう」と動いた。
 
「浩二くん。ありがとう。聞いてくれて。聞かせてくれて。ありがとう。……そっか。そっか。浩二くんにもそういうことがあったんだね……。私だけじゃないんだ、そういうこと。話してくれてほんとにありがとう」。
 
その日はそのまま店の近くの居酒屋に二人で行き、
『今日だけ。そしてオフレコで!』と言い合って、
互いの嫌いな人の悪口を存分に言い合い、
そのあまりの言葉の汚さ、自分の醜さを笑い合った。
私は、なんだ〜、って、思った。
そんなことか、って思った。
もしかしたらみんな、たいした理由もないのに人を嫌いになったり、
人を嫌いな自分を許せなかったり、
そんな気持ちを誰にも言えなかったり、
誰にもしられちゃダメだ、って思ったりしているのかも、って。
そんな風に思ったら、なんだかあかねのこともどうでもよく思えてきた。
 
「あかねさ〜ん、のことがきらい〜。だいきらい〜」
 
最寄り駅からの帰り道、
私は大嫌いなあの人のことを適当な節をつけた適当な歌にして、
ご機嫌に歌いながら帰った。
(おわり)


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