日々の記録
午後1時過ぎ。今日は冷えている。昨夜汗をかいていたようで、それが特に上半身を冷やしたような感じがしている。頭がぼーっとしている。ぼーっとしているけれど何かを考えたがっている。言葉にしたがっている。そう、ぼくの頭は身の上に起こったこと、それによって立ち上がってきた感情のようなものを言葉にしたがる。みんなそうだろうか。今やりとりをしてるKくんもそのような性質にあるとのこと。そのような分かち合いをしているここ数日。いろんな人と、その場その場で分かち合いをしながら生きている。言葉による分かち合いを欲するのは双子座的と言えるのだろうか。
昨夜はミュウちゃんにやられた。ミュウちゃんのことのマスターであるミッチーは昨夜のミュウちゃんを「落ち着きがなかった」と言っていた。その言葉を聞いて少し安堵した。「昨日が落ち着きがなかった」のだとしたら本当によかった。あれが当たり前だとするとちょっと途方に暮れる。彼女はわがままで、起こしてくる。自分が眠れないと人を起こしてくる。昨夜はそのターゲットがぼくで、度々、嫌がらせのように眠りから起こされた。ぼくはとてもイライラした。イライラというか腹が立った。「このわがまま娘!」という感じに、苛立ち、寝室から未明に放り出したが、毎日寝室に寝る彼女は、居間に居場所がないようで、十分とか居間をぐるぐるウォーキングのようなことを続けたのち、「入れて!」と声を上げて、ぼくは再び起きてミュウちゃんを入れた。さすがに放り出されたことが気になったのか、いつもよりも少し遠慮がちに、だけどぴょんと飛んで部屋に入ってきた。その出来事に、自分の器の小ささを思う。子育てをしている人への尊敬を思う。ミュウちゃんはわがままだけど、ぼくもわがままなのだ。猫一匹にいい大人の人間が、本気で怒ってどうする、と思うのだけど、感情は感情。その感情を無いことにしてニコニコすることは違うだろう。あるものはある。残念だけどミュウちゃんのわがままを包容するほどの達観にないのだ。
猫って、ぼくの人生においての我が家の猫って、そういう存在と思う。ぼくの蓋をしたい自分、未熟というのか未発達というのか、小ささを露呈させる存在。昔からそう。子猫時代はなおのことぼくは彼彼女らにイライラしていた。今は毎日がわりと自由というか自分のペースで過ごせる日々にあるけれど、子猫時代は基本的にライター業をがっつりしていたので、眠りを妨げられることにさらに神経質だった。子猫って、本当に元気で、真夜中に運動会をしているような毎日であった。それに比べれば今など本当にかわいいものだ。
猫たちとの暮らしは、ぼくに子育ての大変さを想像させてくれる。それによって母への感謝が確実に増した。感謝と尊敬を強く抱くようになった。猫はたくさん教えてくれる。愛も、愛と呼びたい感情も猫が教えてくれている。猫は、やはり、もう圧倒的にかわいい。圧倒的に愛おしく、ゆえにその死は強烈だった。今年、愛猫のデカメちゃんが亡くなった。昨日だったかにiPhoneがデカメちゃんの写真をぼくの世界に登場させて、そのかわいすぎる姿を見たら、胸が締めつけられた。デカメちゃんはもういない。彼女は死んでしまった。それは今年4月のことだと昨日あらためて知った。今年はいろんなことがあったが、一番の出来事はデカメちゃんが死んだこと。あんなに悲しかったことはない。大げさかもしれないが、絶望を感じた。お先真っ暗、と思った。この先の人生にどんなに嬉しいこと、華やかなこと、素晴らしいことが起こったとしても絶対的にデカメちゃんは生き返らないのだと思うと、未来のすべてが無意味に思えた。その絶望を、この先、まだ何度と味わうのかと思うと恐怖。でも、かみちゃん、デカメちゃんをおくり、ぼくは確実に強くなった。どうしようもない喪失感を痛烈に味わった、味わっていることで、ある種の諦観のような自分が生まれ育まれている。どうしようもないことがある。思うようにならないことがある。その仕方がないことを「仕方がない」とするより方法がないことを受け入れざるを得ない、それが人生というものなのだとの達観を瞬間的におぼえた。ミュウちゃんは長女。年功序列的な感じに考えると、ミュウちゃんがいつ亡くなったっておかしくはない。彼女よりも若い猫たちが亡くなっているのだから。そう思うと、ミュウちゃんのわがままを愛しく感じる自分が光りだす。
ただ今、13時33分。ゾロ目。今年がちょうどあと2週間で終わる。今年も終わる。やらないといけないことがいくつかまだ残っているこの師走。だるい眠いと言っている場合じゃない。本日は、Mへの絵のことをしたい。それからHさんへの返事もしたいが、まだそれを引き受ける決心つかず。何通か来ている友だちたちへの返事はすぐにしよう。せめて返せるものは返そう。ああ、でも、よかった。今、ミュウちゃんが寝言みたいな声を発するのを聞き、愛おしく思えた。イライラもするが、イライラする自分がすべてではない。ただそのような反応が起きただけ。そんな自分もいるだけ。その自分を否定することもない。否定するのではなくてむしろ受け入れること。「だよね。イライラするって。そこでそのイライラを相手にぶつけなかったのだから素晴らしいじゃん」と、もし友だちに相談されたらぼくはそのように答える気がする。それは偽善ではない。嘘ではない。現実に向き合うことと理想を描くこと、抱くことは矛盾ではない。理想を掲げつつ、現実を受け入れる。現実を理想に近づけられるといいね、と、楽観しながら、自分を鼓舞しながら変わり続ける「今」を生きていく。
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- 13:43 |
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