日々の記録

 午後1時過ぎ。今日は冷えている。昨夜汗をかいていたようで、それが特に上半身を冷やしたような感じがしている。頭がぼーっとしている。ぼーっとしているけれど何かを考えたがっている。言葉にしたがっている。そう、ぼくの頭は身の上に起こったこと、それによって立ち上がってきた感情のようなものを言葉にしたがる。みんなそうだろうか。今やりとりをしてるKくんもそのような性質にあるとのこと。そのような分かち合いをしているここ数日。いろんな人と、その場その場で分かち合いをしながら生きている。言葉による分かち合いを欲するのは双子座的と言えるのだろうか。

 

 昨夜はミュウちゃんにやられた。ミュウちゃんのことのマスターであるミッチーは昨夜のミュウちゃんを「落ち着きがなかった」と言っていた。その言葉を聞いて少し安堵した。「昨日が落ち着きがなかった」のだとしたら本当によかった。あれが当たり前だとするとちょっと途方に暮れる。彼女はわがままで、起こしてくる。自分が眠れないと人を起こしてくる。昨夜はそのターゲットがぼくで、度々、嫌がらせのように眠りから起こされた。ぼくはとてもイライラした。イライラというか腹が立った。「このわがまま娘!」という感じに、苛立ち、寝室から未明に放り出したが、毎日寝室に寝る彼女は、居間に居場所がないようで、十分とか居間をぐるぐるウォーキングのようなことを続けたのち、「入れて!」と声を上げて、ぼくは再び起きてミュウちゃんを入れた。さすがに放り出されたことが気になったのか、いつもよりも少し遠慮がちに、だけどぴょんと飛んで部屋に入ってきた。その出来事に、自分の器の小ささを思う。子育てをしている人への尊敬を思う。ミュウちゃんはわがままだけど、ぼくもわがままなのだ。猫一匹にいい大人の人間が、本気で怒ってどうする、と思うのだけど、感情は感情。その感情を無いことにしてニコニコすることは違うだろう。あるものはある。残念だけどミュウちゃんのわがままを包容するほどの達観にないのだ。

 

 猫って、ぼくの人生においての我が家の猫って、そういう存在と思う。ぼくの蓋をしたい自分、未熟というのか未発達というのか、小ささを露呈させる存在。昔からそう。子猫時代はなおのことぼくは彼彼女らにイライラしていた。今は毎日がわりと自由というか自分のペースで過ごせる日々にあるけれど、子猫時代は基本的にライター業をがっつりしていたので、眠りを妨げられることにさらに神経質だった。子猫って、本当に元気で、真夜中に運動会をしているような毎日であった。それに比べれば今など本当にかわいいものだ。

 

 猫たちとの暮らしは、ぼくに子育ての大変さを想像させてくれる。それによって母への感謝が確実に増した。感謝と尊敬を強く抱くようになった。猫はたくさん教えてくれる。愛も、愛と呼びたい感情も猫が教えてくれている。猫は、やはり、もう圧倒的にかわいい。圧倒的に愛おしく、ゆえにその死は強烈だった。今年、愛猫のデカメちゃんが亡くなった。昨日だったかにiPhoneがデカメちゃんの写真をぼくの世界に登場させて、そのかわいすぎる姿を見たら、胸が締めつけられた。デカメちゃんはもういない。彼女は死んでしまった。それは今年4月のことだと昨日あらためて知った。今年はいろんなことがあったが、一番の出来事はデカメちゃんが死んだこと。あんなに悲しかったことはない。大げさかもしれないが、絶望を感じた。お先真っ暗、と思った。この先の人生にどんなに嬉しいこと、華やかなこと、素晴らしいことが起こったとしても絶対的にデカメちゃんは生き返らないのだと思うと、未来のすべてが無意味に思えた。その絶望を、この先、まだ何度と味わうのかと思うと恐怖。でも、かみちゃん、デカメちゃんをおくり、ぼくは確実に強くなった。どうしようもない喪失感を痛烈に味わった、味わっていることで、ある種の諦観のような自分が生まれ育まれている。どうしようもないことがある。思うようにならないことがある。その仕方がないことを「仕方がない」とするより方法がないことを受け入れざるを得ない、それが人生というものなのだとの達観を瞬間的におぼえた。ミュウちゃんは長女。年功序列的な感じに考えると、ミュウちゃんがいつ亡くなったっておかしくはない。彼女よりも若い猫たちが亡くなっているのだから。そう思うと、ミュウちゃんのわがままを愛しく感じる自分が光りだす。

 

 ただ今、13時33分。ゾロ目。今年がちょうどあと2週間で終わる。今年も終わる。やらないといけないことがいくつかまだ残っているこの師走。だるい眠いと言っている場合じゃない。本日は、Mへの絵のことをしたい。それからHさんへの返事もしたいが、まだそれを引き受ける決心つかず。何通か来ている友だちたちへの返事はすぐにしよう。せめて返せるものは返そう。ああ、でも、よかった。今、ミュウちゃんが寝言みたいな声を発するのを聞き、愛おしく思えた。イライラもするが、イライラする自分がすべてではない。ただそのような反応が起きただけ。そんな自分もいるだけ。その自分を否定することもない。否定するのではなくてむしろ受け入れること。「だよね。イライラするって。そこでそのイライラを相手にぶつけなかったのだから素晴らしいじゃん」と、もし友だちに相談されたらぼくはそのように答える気がする。それは偽善ではない。嘘ではない。現実に向き合うことと理想を描くこと、抱くことは矛盾ではない。理想を掲げつつ、現実を受け入れる。現実を理想に近づけられるといいね、と、楽観しながら、自分を鼓舞しながら変わり続ける「今」を生きていく。

 


どちらでもいい

 12月5日。よかったこと。昨日の星の講座でよかったことを書いておく。それは、「自分のわからない」を感じられたこと。星の”アスペクト”という角度からの、角度から作られる図形が、やっぱり全然わからなくて、すごく焦ったし、劣等感みたいなものをおぼえて。その感触は、学生時代の数学の時間のようだった。だけど当時と違ったのは、その自分の不得手を、「苦手を克服しなくてもいい」と思えたこと。こんなに苦手なのだから、ぼくのこの人生にはそれは「不要」としていいのだ、と思えたのだった。学生の頃は、どれもこれも人並みにできなくてはならないと考えたけれど、学生を終えて20年以上経ち、当時苦手だったことが苦手のままでも何ら生きていくのに困らないということがわかった。そして、まんべんなくこなせることよりも、得意なことが際立っている方が社会的にも重宝されるという体感がある。自分の苦手なことが得意な人がいる。人には向き不向きがある。その凹凸こそが個性なのかもと思う。ぼくはホロスコープの複合アスペクトに関しては、「苦手」「よくわからない」でいい! 決定的にそのように思えたことが何よりの収穫だった。

 今は午後の2時。外では大家のレイさんがおそらく落ち葉掃きをしている。そのような音がする。何もやましいことはないが、何だか静かに、なるべく音を立てないようにしてしまう。人がいるとき、何だかそのように身を潜めてしまう自分がいる。気配を消そうとしてしまうことがよくある。それは、自分がゲイであることにより自分を不気味で異常な存在としていた時間が長かったことの影響だろうか。でも、別にそれでいい。今のこの状態が不幸せではないし、「癒さないと」とも思わない。この人目を避ける的な自分がいつか消えていたらそれでいいし、消えないまま死んでいくのでもかまわない。その自分をただ、へー、と眺めている。肯定も否定もなく。そんなふうに、あらゆることをフラットに捉えることができたら、すごく人生が軽くなるだろうな。さまざまなことを心から「どちらでもいい」と思えたら、人生から良し悪し吉凶が消えるのだろう。その時、「私」、は人生のただの観察者となるのかもしれない。その在り方は味気ないかもしれないし、とても気楽かもしれない。それはなってみないとわからないし、なりたくてなれるのか、なりたくなくてもなってしまうのか、そういうこともよくわからない。とにかく、今日の自分をまずは「いいよ」と生きたいと、今日のぼくはそう思う。

 

 


セルフィー

 

 午後。とても暑い。少し外に出るだけで汗が流れる。夏。待望の夏。だけど今日もぼくはだるい。何をしたいだろう、と問いかけこれを選んだ。絵も描きたいような気はするが、本心ではないような感じもして文を選んだ。

 

 さっき出てきた言葉。「あるべき感情。とるべき態度」。ぼくは道徳の時間が好きで、道徳がとても得意だった。自信があった。正確なことは思い出せないけれど、とにかく道徳の授業はそれこそ「あるべき感情、とるべき行動」を問うものだったように思う。そして、ぼくはそれを答えることがとても上手だった。正解がわかった。なんで他の人はわからないのだろう、と思っていた記憶が蘇ってきた。ずっとぼくは道徳的に生きようとしてきているのかもしれない。正しいとされる感情や振る舞いを自然に弾きだし、それが本心と違っても、そうあるべきだという命令に従ってきた。それによって、その場は満足のようなものをして、あとで本当に自分が感じていたことや、あらわれ出ていた、出ようとしていたが制御した態度、その自分に復讐のようなことをされる。後悔をするということ。でも、その後悔もまたぼくは「後悔は不要」として切り捨てる。なかったことにする。見過ごす。そのようなことを繰り返しまくるうちに、自分の本心とかけ離れた立派な仮面をつけることとなった。立派な仮面をつけて外の世界に出て行き、立派な人のようなふりをして、その立派な人物を自分だと思い込んでしまう。そうしてますます本当の思いのようなものが自分から遠のいてしまったのかもと思う。本能のぼく、野生のぼく。ありのままのぼくから。いい人、立派な人をやめたい。あるべきと思う自分を演じることをやめたい。なぜならしんどいから。興味のないことを興味があるふりをして、自分を騙して生きることをもうやめよう。そんなことをしても自分はよろこばない。そんな風に生きて、つくりあげたその人物像を慕ってやってきた誰かを、自分は欺いているのではないかという思いが常にどこかにある。葛藤。それは葛藤。葛藤を減らしていきたい。いや、減らす。もっと自分のまま生きることを許す。許可する。

 

 本当は、多くの人のしていることになど興味がない。なんとも思わない。その話を聞いても、その姿を見ても、本当には感動をしていない。結局自分にばかり興味がある。関心は自分に向いている。一方で、人からの評価を求める。人に評価をされたいと思っている。だから、人のことを気にする。興味のあるふりをする。でも、それは純粋な興味ではなく、駆け引き。下心がある行いなのだ。その下心を自分は知っている。だから、人からの好意を信じることができない。仮の、嘘の、偽りの自分への好意と感じてしまうのだ。本当のぼくを知ったらそんな風には思わないだろう、と感じている。

 


日記

 また新しい日。今日も今日とてニューデイズ。さっきまで久しぶりにお客さんがやってきた。M一家。もしかしたら初めてなのかもしれない、ミッチーがやりとりをして人が訪ねてきたという午後。ぼくは、ただやってくるのを待つという状態。久しぶりすぎて緊張をしている自分がいて少しおかしかった。何を緊張するのだろう、知らない人たちではないのに、善良な一家なのに。おかしい。そして、訪問はとても楽しいものだった。なんだろうな、空気が変わるというか、風が吹く。人がやってくるとなり、関係ないけど家も少し丁寧に掃除などをして、整えたくなりそれをした。ミッチーも早くに起きて、アトリエに掃除機をかけていた、その音が聞こえて嬉しくなった。動きが起こる。そうしたこと、そのような流れに「大丈夫」という安堵感というのかがわく。希望を感じる。彼らは、この秋に自宅の横に小屋を建ててそこでお店を始めるという。そのお店で着用するユニフォームみたいなエプロンをミッチーに頼みにやってきてくれた。そして、ぼくの絵も欲しいと言ってくれ、いつか描いた玉ねぎの絵を欲しいとなったけど、値段は相変わらずつけていないし、急につけることもぼくには難しく思えた。野菜の絵がほかにもあれば見たいと言われ、即座にそのような絵が存在しているのかがわからず、ただ、あたらしく描きたいと思った。そういうきっかけになりそうと直感。わからないけど、こういう感触を大事にしたいと思う。何がどう転がるのか皆目見当つかない未知。そういう午後だった。今は先ほどの小さいスコールが去り、また晴れ間。午後の4時を回り、ミッチーは今日3回目の洗濯を始めた。外では人見知りのアンくんが鳴いている。お客さんたちに顔は見せたけれど、同席はせずどこかへ出かけ、帰る頃に再びあらわれ、見送ってくれた。いつも賢いアンくん。マイペース。猫はいつでもマイペース。ぼくもマイペースでいい。マイペースでいよう。

 

 絵のことについて今朝思っていたのは、自発的に絵をいつも描いていたけれどこの頃はそうした衝動めいたものはないな、ということ。それはちょっと淋しいような心許ないような感じであったが、そうするとこのように絵を描くきっかけがやってくる。うまくできていると思う。さっそくいただいた野菜の絵を描きたいとも思ったが、なんだかそれは実は無理をしている、自分をそう思い込ませているだけのようにも感じ、「何をしたい?」と自問。パソコンと今日はそれほど戯れていなかったので、パソコンに触れたいとなった。そう、パソコン、特にこの作文行為は、創作というよりもただ、パソコンのこのカタカタという感触に触れる、そして戯れるという感覚が強い。ぼくはそれがとても好きなのだ。

 


アタシ問答

 

 昨夜はそんなわけで覚醒していた。眠いけど、ものすごく頭がクリアーで、自分の人生の意味がみえた。ぼくは、ぼくでいたらいいのだ。社会的に否定されても、そのような自分をぼくは受け入れる。愛する。どんな自分も認めていく。そうしてただ生きていく。ぼくが100%の自分、自己一致した自分である時、それはどのような表現よりも「表現」なのだ。言葉とか絵とかそうしたもの以上に、生きる表現となる。それは、言葉やいろいろを超えて、触れた人に伝染するのだろう。それが、ぼくの生きる意味。ぼくが生きていてできる最大の貢献。そう、これまではどこかで、「こんな自分ではいけないのではないか」とか、「社会の役に立っていない」「人の役に立っていない」と思っているところがあった。でも、それは違う。自分が自分らしくあるということこそが、どんな仕事よりも社会や人の役に立つのだ。だって、そのように自分を100%受け入れている人は、人に対しての否定がない。自己否定のない人の放つエネルギー、空気はきっと、ものすごく澄んでいて、気持ちがいいだろうと思う。清々しいというかね。そんな人が、存在していることがもう救いやら希望になるのだ。今、佐藤初女さんのことが思い浮かんだ。お会いしたことはないから実際はわからないけれど、彼女がされていた「家」は、そこを訪れた人が、浄化されるという話だった。でも、そこで何か特別なことをするわけではない。儀式と言えるとしたらそれは、一緒にご飯を食べることだった。食事をともにして、少しお話をする。初女さんがされていたのはたぶんそういうこと。それだけ。でも、そこにはおそらく一切の「否定」がなかったのだろう。「そのままのあなたでいいのですよ」と、それを言葉だけでなく、それこそ全身全霊で、エネルギーとして響かせていたのだろう。そこに駆け込んだ人は、そして癒される。生きていていいんだ、自分もいていいんだ、と涙したのだろう。生きることを許された。そのような感覚になったのかな、と思う。ぼくは、それを自分にしている。彼に対してしている。彼もぼくにそれをしている。それが「愛する」ということなのかもしれない。そう思う。

 

 


棚卸し投稿

質問。今日はどのように過ごせばいいのでしょうか?

 

 

 過ごし方に良いも悪いもない。あるのは自分に一致しているか、自分の本心と約束を交わしたのだとしたら、その約束を守っているかどうか。自分が心地よくいることが自分への約束。自分を大切にしていると思えたらその日はきっとすばらしい夢をみることができるでしょう。自分に厳しくしてもいい。厳しい自分を愛でてあげることになる。厳しい自分も甘い自分もどちらも自分。ネガティブもポジティブも両方あるのが人間。片方だけの人間なんて存在しない。陰陽があわさってひとつの人格となる。ものは見方次第。見方を変えれば陰陽は反転する。だから、自分が正しいと思えばそれをすればいい。正しいか正しくないかというと、すぐに社会的な規範に照らし合わせてしまうこともあるから、言葉を慎重に選びましょう。自分が自分につかう言葉を吟味すること。いちばん負荷のすくない、ゆるやかな表現を選ぶことが自分を大切に扱うということ。

 

 自分という人間を「自分」から切り離し、「この人」がどうしたらよろこぶか。生きていること、生かされていることに自然と感謝がわく人になるには、どのようなことを今日与えてあげたらいいだろう? そんな風に発想してみると、自然とみえてくるものがあるのでは。間違いなんてないのだからね。間違いと思うことも時間が経って物事の見え方、捉え方が変われば「すばらしいことだった!」と変化する。その変化を「成長」と喜べばいい。自分をどんどん喜んで、祝福していくこと。人生は長いようで短い。あっという間に過ぎていく。自分を縛り恐れさせる自分を手なづける、仲良くなる、そうして、自分を罰する自分をその役から解放してあげることを目指してみましょう。そのようにすると、自分が思う以上にすばらしい存在、ユニークでクリエイティブな存在だということがわかるはず。

 

 幼き自分とつながります。今はどんな気持ち? ポカポカしてあたたかくて春みたいでうれしい。うれしいとどんどんうれしくなって、それがまたうれしい。だって外は晴れていて、あたたかくて、気持ちがとってもいいもの。それだけで幸せ。ポカポカしたお布団でごろんと横になって夢をみたいな。どんな夢? わからない。夢は夢だからね。わからなくていいの、わからないからたのしいの。この世界にもね、夢をみてやってきたんだよ。夢の世界にトリップしたくて生まれてきたんだよ。だからね、ワクワクしているの、毎日に。いつもいつも、なにが起こるんだろう? ってドキドキしているの。すっごく面白い。だって、1分後にどんなことが起きるかをぼくたちは知らないんだよ? 天変地異? それもあるかもね。もしかしたら、地球がパッカリ二つに分かれて、隙間ができて、谷底をのぞくみたいにして宇宙がそこに見られるかもしれない。ここも宇宙だけどもね。こどものぼくはいつだってワクワクしている。ワクワクしているってことはよろこんでいるってことなんだよ。生きていることがうれしい! ぼくとつながれば、いつでも生きていることがたのしくてうれしくて、最高なんだってことを思い出せるよ。手足が動くことやこんな風にパソコンを使って思っていることを瞬時に言葉にタイピングできるなんて、なんてたのしいんでしょう。そう思わない? そう思わないんだったら慣れちゃったんだろうね。あたりまえに思ったんだね。でも、本当はあたりまえじゃないよ。いつでもいつまでもあるものとは決まっていない。だから、せっかく与えられているのだから、今それを楽しまなくてどうするの。たのしもうよ。おもしろいなー、って生きていこうよ。ぼくからはいつもそういうメッセージを発しているよ。あなたに伝えたいな、って思う。

 

 生きているってすばらしい経験だよ。なんでもできる。なんだってなれる。そう思わない? 一瞬でできなくても、何年も何年もかかったとしても、いつかそれが叶う日がくる。そう思う。もしかしたら別の人生かもしれないけれどね、でも、願えば叶う。そう思って生きていたらたのしくない? 願いは願ったらだから叶っているんだよ。ただ、時間差があるだけでね。夢はすべて叶うの。それを「叶わないかも」って思うから、「叶わないかも」ってことが叶っちゃうだけで、安心して、くつろいでいればいいの。安心してくつろぐ自分を意識して、つながって、そこに生きる時間をどんどん意識的につくりだしていれば間違いないの。不安からすることは不安のエネルギーがのるからね。もったいないでしょう? べつに不安も悪じゃないし、ダメじゃないけどね。ただ、不安になりたくないんだったら、無理して不安になることはないんだよ。不安に没頭していたら、その時間は不安なんだから。目の前のことには意味がないんだからね。なんにも決まっていないの。それを言葉で感情で色付けをして一喜一憂しているのは自分。自分がだから選んでいる。そのことを覚えておけば、大丈夫。ちゃんと戻るべき自分というのかな、ありたい自分をもっていることが大切かもしれないね。安心でワクワクしているぼくのことを思い出して「つながる」って思えば、瞬時につながれるんだから。簡単なんだからね。簡単なことを難しくしているのはあなたの癖。ただの癖だから、「癖だ」ってわかれば、癖は癖でなくなるんだから、そうしてみてね。


顔や顔

 

 

 テレビで、堂本剛の顔を特殊メイクの人が堂本剛と似た顔の形、体型をもつ人にほどこしていて、似非堂本剛をつくっていた。そして架空のトーク番組に彼を登場させ、司会者の反応をみるという実験のようなことをしていてすごく面白かった。けっきょく、司会者であるしずちゃんは気がつかなかったわけだけど、それに対して山ちゃんはショックを感じていたようにみえた。なぜ気がつかないのか。というか、似せるというのはどういうことなのか。それを受けて本物の堂本さんは「彼の、努力がすばらしい」ということを言っていて、その感想をすてきだなと思った。顔だけではないのだな。ぼくは、それを見ていて、まず声というものの大きさを感じた。声というのは、ものすごくその人自身を表すものだと思った。声というのは、響き。それには声帯やなにやが関係しているのだろうが、その物理的というかそうしたものが要素としてはあるのだろうが、言葉を発するその心のようなもの。その言葉を選ぶ感覚、その言葉を発するトーン、そのときの仕草、姿勢など、それをよしとする、それら複合的な要素によってあらわされること、状態が、話す、喋るということなのだな。だからして、似せる時には、その人の思想というかその人自身を知ろうとし感じることがとても重要なのだと思った。そのことへの努力を堂本さんは感じて賞賛の言葉をおくった。それは、演技をするということ。演じるというのは、そういうことなのかもしれない。演じる際には、自分のセンスや感性などを横におき、演じるその役柄のそれに身を預けることなのかもと思った。そして、人は、みな演技をしているということでもあると思う。その人が、理想とする自分というのか、あらわそうとする自分を表現しながら生きている。つまりは変幻自在ということ。どのような人にでもなれる。けれど通常、これまでの蓄積が習慣として残っていて、それを踏襲することによって昨日と同じ自分を自らがつくっているということなのだと思う。もし自分が気に入らないのであれば自分があたらしい自分になってしまえばいいのかもしれない。過去の自分が自分として思い、構築した私を捨てること。それができれば、自分は一瞬で変われる。記憶喪失におちいった人というのは、それまでと肉体は同じでも、過去の蓄積がもしもリセットされていたら、別人のようになってしまうものかもしれない。けれどそこには、肉体の癖、しみこんだ動きが影響を及ぼすことはあるのだろう。立ち方とか座り方とか動きかた発声の仕方など、体が主体となり自動的にそのようになる、する。そういうことがあり、昨日と同じ自分が努力することなしに再現されていく。

 

 人が人に対して魅力を感じる、好感や嫌悪感をもつ際には、顔だけではなく、その人の全体をみて、感じて、受け止めて快不快をキャッチしているものかもしれない。表に放たれるものは、まず裏というか内側にあるものなのだろう。そう考えるとやはり、精神や肉体を磨く、自分が美しいと感じる状態に近づけることが外側に放つものを決定するのにちがいない。まずは内から。


あたらしい問答

 おはよう、私。おきた。目が覚めた。9時25分。ひさしぶりにこの問答をはじめたくなったのではじめた。絵にこだわることはないと思った。絵は描きたいから描いているのであって、描きたい衝動がないなら別に描かなくてもいい。そして、映画をDVDで借りて観るのがたのしいこのごろは、それをたのしめばいい。暇だから、時間があるからそんなことをしている、と、どこか罪悪感というか背徳感のような感覚にしがみつくことで平静のようなものを保っていた気がするが、そんなものは必要ない。だってぼくの人生なのだもの。いつまでも、40歳を前にしてそんな大学生のようなことをしていてはいけないと思い込んでいたけれど、したいことをすればいいのだ、誰に言い訳することもなく。今日もDVDを借りようと思う。返すついでに次を借りよう、あきるまでそうしよう。
 
 きのう観た「トラッシュ」というアンディ・ウォーフォールがプロデュースした映画が衝撃的だった。借りたきっかけはインスピレーションなのだけど、その根底には主役の男の子の裸をみたいという心があった。かつて彼が主役の「ヒート」という映画で、その裸体に魅せられた記憶がうずいた。ぼくは、そのように男の裸のために映画を借りて来た人生なのだ。「トラッシュ」はゴミという意味らしい。そんなことも知らなかった。映画を観終わってから、インターネットで感想をしらべたら、ゴミ、屑、と、タイトルの意味を知った。そして、この映画の出来をその言葉通りだと書いている人がいたが、ぼくにはまったくそう思えなかった。主人公の彼はジャンキーで、アヘン中毒者だった。その彼が、セックスを、フェラチオをされるシーンから始まる。そのフェラチオのされ方からして面白い。彼のお尻が大写しになったりするのだけど、お尻には赤いできもののようなものがいくつもあり非常に生々しく魅力的だった。リアリティというのを感じるのは、そういう完璧じゃなさかもしれない、ぼくにとっては。その他のシーンでもカメラワークというのがぼくの心に響く。ちくびや、脇などを微妙な距離でとらえる。それは、監督の目のような撮り方に見える。目になった。その目線はぼくのそれと近いというか共感できた。美しいと思った。
 
 ジャンキーというものにこれまで全然興味がなかったということを、ジャンキーに興味をもったことで知った。ジャンキーというのは究極の快楽主義者かもしれない。究極のSM。人生をかけたSM。みんな、そうなのだろう、人類はみなSMをしている。ある快楽と、不快楽。快楽が快楽であるためには快楽じゃない時間が必要という快楽。映画は、男の行きずりの、行き当たりばったりの生活が描かれている。金目のものを盗みに入った家で主である夫婦の妻にみつかり、なにをする気? と詰問される。男は正直に答える。うちには安物のラグとクッションしかないと女は言う。あなたはジャンキーと聞く。男はたいへん男前で、顔も体も美しい。魅力的なのだった。女はすぐに興味をもち、男とセックスをしたいと思い、まわりくどく誘う。このまわりくどさは彼女の生き方をあらわす。やがて夫が帰ってくる。夫婦はジャンキーを見下し、遊び道具として使いはじめる。男前のジャンキーというのはある意味究極的だと思った。お金が欲しいのはヤクを買うためというジャンキーは、およそそれ以外のことに関心がない。社会性がない。ふつうに生きている人へプレッシャーを与えない。もうろくしているジャンキーは恥じらいというものがない。セックスをお金に替えることもレイプもまるで抵抗なく行なう。罪悪感や羞恥心がない人を前にすると人は本性をあらわせるのかもしれない。それは、ベクトルやあり方は真逆だが、神というか神様に近い存在ともいえる。仏陀やキリストはその存在で、その人のそばにいるだけで覚醒させたなどという話を見聞きしたことがあるが、ジャンキーの存在もそれに近いと思った。本性をあらわす男女は、ジャンキーを「最低」と罵れるような人間ではない。けっきょくセックスをしたい、快楽を求めている女。女の本性をかぎとりながら社会的な仮面がへばりついてはがれない男。どちらも最低といえば最低。同じ穴のむじな。人は、かっこつけたって、やりたいのだ。楽しみたいし、快楽を求めたい。でも、それに没頭することは怖くてできない。失うものが多すぎるのだろう。失いたくないのだろう。映画を平日の昼間に横になって観ながら、ぼくはジャンキーと自分はほとんど変わらないように思え、おそろしくなった。今の毎日というのは、社会性がほとんどなく、その日暮らしで、自分のしたいことを中心に生きていて、ジャンキーと変わらないと思った。なぜ毎日自分が掃除機を家中にかけているのかがわかった。掃除をすることで、瞑想をすることで、お風呂に入ることで、そうしたやってもやらくなてもいいことで自分を保っているのだと思う。知らなかった。したいから掃除をしていると思っていた。でも、したいと思う衝動の根底には、そうした恐れがあったのかもしれない。そんなことがその映画を観てわかったことがすばらしい。映画は鏡になるのだ。
 
 もう一本「すべての些細な事柄」というどこかの国の精神病院というか、精神を患った人たちの療養所を撮影したドキュメンタリーを観た。淡々と、わかりやすい意図を感じさせず人々を撮っていく流れに、しばらくは退屈した。この映画は無理かもしれないと思った。でも観ていくうちに、そこに映る人たちに愛着のようなものがわいてきて、彼らがとてもかわいく、魅力的に見え始めた。さらに観ていると、彼らと自分が変わりないように思えてきた。彼らの、オープンというか、そのまま、という感じの表情や動きや言葉は、ぼくを安心させる、ということがわかっていった。なんだか泣きそうな気持ちになった。ほんとうは、ぼくもこういう人々に囲まれて、こうした安全で安心な場所で生きたい、と思っている自分に気がついた。他人事に思えなかった。映画にはとりたててストーリーはない。施設の寄付を募るためのお祭りで劇を上演する日が映画のクライマックスにあるのだが、その日の様子も淡々とおさめられていた。そして劇は終わり、祭りの後を掃除する場面がうつる。パーティーは終わった。なにごともなく新しい1日が始まった。人生はつづく。そういう感じ。映画の最後にひとりの男性が、カメラに向かって話をする。自分がこのようになったのは社会のせいだ、と言う。でも社会のよって助けられたとも言う。こういう安心なところにいられて良かった、というようなこともたしか言った。精神病と診断される人というのは、わからないけれど、とても繊細なのかもしれない。あまりにも繊細で、故に傷つくことが多すぎて、社会で生きていくことができない人たちなのかもしれないと思った。弱いのかもしれない。でもその弱さはいけないことではないし、ダメなことでもないし、恥ずかしいことでもない。弱さを認めることができるというのは強いということかもしれない。そしていかに社会が人々へ圧力をかけているかを思った。なにかひとつヘマをすれば職を失ったり、拘束されたり、仲間はずれにされたりしかねない社会。だから社会が成り立つのだと社会人は言うかもしれないが、そこに生きる人たちが不幸であったらその監視社会が存続することに意味があるのだろうか。社会不適合者が集うその施設は楽園のように見えた。もしも社会が、そのように人々が自分でいることを許す場所ならば、世界から精神病院などなくなるのかもしれないと思う。

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