最近気になっていることを書くことで整理しようと思う。
大は小を兼ねるとはいうけれど、
国のためとかはおかしいなと思うのは、
国が幸せになることと個人が幸せになることは、
たぶんイコールじゃないでしょう。
だって、国って実態がないようなものだし、
実態があるということにしたとするとそれは個人の集合なわけでしょう?
すると全体を、まず大きなものを満たすには、
つぶつぶのわたしたちが満たされないことにははじまらないし。
人はそれぞれ違うのだから、
全体として「これでOK」なんてものはないのではないか。
また、もしそういうものがあるのだとしたら、
あらゆるニーズを満たすものとはいったいなんだろうか。
そうなると、
みんなの幸せのために髪振り乱して生きるまえに、
まずはぼくが今を満たすこと、
その今というのは、過去も未来もない今だけど、
過去未来というイマジネーションを含む今を満たすとなると、
先々を不安と仮定したがる自分の想像力、想像をうながす心や頭の働きを律することが重要なのかもしれない。
過去もおなじく。
感覚というのは、あいまいで、よくわからいことをごまかすための逃げ口上ではないのだな。
たしかに感覚というものはあって、なんとなく好きとかなんとなく気持ちが悪いとか、
なんとなく、なんかそう思う、感じるなど、
論理的に言えない、整合性のとれていないなにかというものは、
やっぱりちゃんとあって。
感覚を軽視させたがる社会というものがあるのだとしたら、
それはなぜか。なぜ、「なんとなく」がいけないのか、という裏側を考えてみたい。
感覚は、おそらく、教わった過去の法則などを無視した、
あざやかな解。をもたらす回路なのかもしれない。
ぼくは、思考的でなくてはいけない、社会的でなくてはいけない、論理的でなくてはいけない、
そのようでいないとまともな人間と思われない、社会の一員になれない、とどこか強迫的に思い込み、
その自分内ルール、われの常識にながらくとらわれ、
その圧力に従い生きてきたようなところがあり、
けれど、そのルールにのっとり生きていくことが自分を幸せにしないということに
じょじょにじょじょに気がついている今なのでしょう。
周囲の賛同、共感、
みんなの賛同、共感が束となり、
いつかマイノリティだったルールがマジョリティになるのを待ってから動こう、というのもひとつの生き方だけれど、
ぼくは、こらえ性がないのだろうな、
違和感に気がつくと、それを見ずにはいられない。
見ているうちにその存在感が大きくなるのは、
人間のしくみみたいなものかもしれません。
うん、なんか、こう書いていても、
ちっともあたらしい考えに行き着かない今日だなー。
そういう時なのでしょう、まだもんもんする時。
ひとまず、なにかを書きたくて書いてみましたが、
この午後はなにをしよう?
なにをしたいのだろう自分は。
昼寝?
おもしろい動画をみる。
借りてきたDVDをみるのはちょっと違うかな。
買った小説をひらく?
手をつけていない本?
友だちがすすめてくれた動画をみる?
掃除?
なにか捨てる? 衣類とか書類とかそういうものと向き合う?
散歩?
猫をなでる?
絵をかく?
ニュー男子かく?
とった写真をパソコンにとりこむ?
誰かに連絡とってみる?
おかしやく?
ゴロゴロ?
TRE?
めい想?
トイレいく?
昼風呂?
ふしぎなほどなににもときめかない。
今はまだこれを書きたいということかもしれない、キーボードをカタカタいわせたい。
録画してある番組みる?
小沢健二のやつとか。
情熱大陸とか。
星野源のとか。
youtubeみる? 矢野顕子のライブとか、ピアノのなにかとか。
タバコすう?
酒のんでみる?
わからないわからないわからない。
自由ってなんなのでしょうか。
ほんとの自由ってなんなのでしょうか。
ほんとのとほんとじゃないのと自由にもいろいろあるのでしょうか。