おわりのはじまり

 トオルさんは泣いていた。ある晴れた午後、お昼に大好きないなり寿司を食べ、タバコを1本吸い、一瞬満たされた気分になった後、泣くことにした。けれど、涙は一粒も流れていない。嘘泣きだからだ。トオルさんは、涙を流すこともできない自分にガッカリし、また泣いた。過ぎ去った長い時間を振り返り、これから訪れるであろう長い時間をおもい、泣いた。わたしは一体なんのために生まれてきたのだろう。なにをすればいいのだろう。あの夢は、とっくの昔に叶えてしまった。あの夢も叶った。だけど、いちばん、本当に欲しいもの、欲しい夢は叶う気配もない。しばらく泣きまねを続けた後、ベッドに横になり枕をどかし、布団と平行にうつ伏せになってまた泣こうとした。

 

 トオルさんは、いつからかお話を考える人になった。お話を考え、頭に浮かんだ世界を絵にし、いわゆるマンガを描く人になった。それは彼の一つの夢だった。トオルさんの描く世界は、少女マンガとよばれるもので、トオルさんは鈴木ユリ子という名前で世界とつながっている。ユリ子さんのファンは多い。たくさんの読者から、毎日たくさんの手紙が届くほどその世界は魅力的だ。そうした人生における一つの成功ともいえる何かを手にしたのは今からおよそ20年前。トオルさんは、その、夢が現実になったその日の、その瞬間のことをよく憶えている。なんどもなんども頭の中に描いて、忘れないようにしているのはその記憶が彼の人生のもっとも幸福な瞬間の一つだから。

  

 トオルさんはいつの間にか眠ってしまった。夢は見ない。いや、憶えていない。それはトオルさんがとてもつかれているから。どうして、こんなに自分はつかれているのかトオルさんは知っていた。それは自分の人生が嘘から出発しているから。

 

 トオルさんは嘘つきだ。けれどそのことを知るものはトオルさんの他にただの一人もいない。その嘘を迷惑に思う人もいない。嘘は、トオルさんがトオルさんについていることだから。

 

 もちろんそんなことはずっと、ずっと、ずっと前から知っていた。知るという言葉を知るよりも前から知っていた。いや、わかっていた。彼は、男としてうまれたその瞬間から、けれど男が好きな男だった。そのことをはっきりと認識したのはいつだったかわからない。それは、あまりにもそのものとしてそこに、トオルさんのどこかに存在しつづけていて、猫が排泄した後を砂をかけて隠すように、何重にも、何重にもカギをかけて、さらにそのドアの上からまたカギをかけ、そのカギはどこかへ放り投げてしまっても、やはり、ドアはそこにあり、汚い汚物のように、それはトオルさんのどこかに確実に存在し、かすかに、かすかに匂っている、今日も、今も。

 

 泣くことだってぼくはできないんだ。そう小さくつぶやく。悲しかった。とても悲しかった。外を見ると太陽がだいぶ西にかたむき、夜とよばれる時間がもうすぐやってくるのがわかった。トオルさんはベッドを離れ、顔を洗うために洗面所へ向かい、そこで鏡にうつる自分の顔をみた。私はいくつになったのだろう? あと何年、わたしはこうして生きつづけるのだろうか。涙はでなかったがその顔は泣いた後のように少し目がはれていた。

 

 シャワーをあびようか迷ってやめて、けれどおもむろに服をすべて脱いで、下着一枚になって、部屋へ戻って、クローゼットをあけた。スカート、ブラウス、キャミソール、レギンス、etc。女物とよばれる衣服がつまったクローゼットはトオルさんの秘密の場所。太陽が沈んでしまえばトオルさんの時間は終わる。アルコールに依存している自分をわかっている人が言い訳のように使う、夜になったら飲んでもいい。の法則をつかって、トオルさんも日が沈むのをまち、女物の衣服をまとい、化粧などをし、百合子という人物になる。だけど本当は、トオルさん、女の人になりたいわけではない。女性に憧れがあるとすればそれは、男性に愛される、男性と愛し合えるというただ一点。入念に、丁寧に、秒ごとにトオルさんは百合子さんになっていく。それはとても自然なことのように見える。秋の終わりに少しずつ枯れた葉っぱがおちて、木々たちが冬支度をはじめるがごとく、自然に。

 

 百合子さんとなったトオルさんは、泣くこともできる。百合子さんは夜が終われば消えていくはかない存在。だからこそ、自由を与えられている、トオルさんに。好きな音楽を大きな音で流し、踊ったりもする。ウキウキと夕飯の支度などもたのしそうにするし、大きな声で笑ったりもする。トオルさんは百合子さんが好きだ。その証拠に、トオルさんは百合子さんのためにたくさんの洋服を買い、百合子さんの好物も昼間のうちに買い出しにいくし、シャンパンだってちゃんと冷蔵庫に冷やしておく。トオルさんは召使いのように、シモベのように百合子さんに尽くしている。けれど、それは愛とは違う。見返りを求めているから。百合子さんが気ままに、自由に、たのしく生きてくれることでトオルさんは生きる力をもらっている。いや、生きる力をもらいたくて百合子さんに尽くしている。同じ行為でも、大切なのは順番。動機のようなもの。あなたのため、と、いいながら、本当はあなたが元気でいてくれないと私が元気でいられないのならそれは愛というよりも依存。ということで、トオルさんは百合子さん依存症なのだ。

 

 依存されている百合子さんもまた、ひとりでは外に出かけることができない。怖いのだ。世の中が、世間が、世界が、怖い。そのことを百合子さんが自覚しないように、トオルさんはせっせと毎日外で必要なものを手に入れてくる。二人はときどき会話もする。うわべの会話。テレビの誰々が不倫したんだってね、知ってる? 今度、あそこに美味しそうな中華料理屋ができたんだって。など。「自分」について話が及ばないような、大きく自分と関係しない話はいつまでだってできるけれど、はっきりいってつまらない。そんなことはおそらく死ぬ間際には思いださない。大事ではない話だから。あの人が不倫したというけどあなたはどう思う? それは何故? 不倫がいけないと思うのは本当にあなたの価値観? なんでそれがわかったの? 自分にとっていけないことってなに? そんな風に「自分」に向かう話をするのは二人にとってとても怖いこと。ホラートーク。そんなことを本気でし始めたらきっと、どちらかが消えてしまうかもしれない。「私」の消滅は、本能の危機! ということで、ほろ酔い気分で交わされるのは今夜も他愛のない話をシリアスでなく。

 

 1日は、あっという間に過ぎていった。1年はあっという間に過ぎていった。トオルさんは、気がついたときには百合子さんのほか、話し相手がいなかった。鈴木ユリ子先生の担当編集者は、ときどき打ち合わせにやってくるけれど、先生と編集者の関係でしかない。必要最低限の話をしたらもってきた手みやげをいっしょに食べる時間などないのですよ、といった感じにそそくさと帰り支度をはじめる。トオルさんに兄弟はなく、両親も死んでしまった。ユリ子先生にはたくさんのファンがいるけれど、それはトオルさんのファンではない。なんて、さみしいのでしょう。今日も。

 

 だから、死のうと思った。トオルさんは長年、なんども死のうと思ったし、今だってそう思っているともいえる。ズキズキと歯が1日中小さく痛む日には、何をしていても歯のことを思いだすように、いつだってトオルさんは死のことを忘れていない。けれど、死んではいない。試したこともない。死ぬなんて愚かなことを、ということではなく、単純に勇気がない。そう、トオルさんには勇気がない。いやいや、勇気は免許証みたいにしかるべき獲得への努力をしてどこからかいただくものではない。ただ、あるもの。それは、やさしさとか、思いやりとか、怒りとか、そういった目に見えないけれどあるとされているもののように、トオルさんにだってある。というかそもそも、死ぬ勇気というのはいったいなんだろうか、という話だ。自殺。自分を殺す。殺人。人を殺す勇気をください。といったらそれは勇気じゃありません。という話ではなかろうか。勇気は思いやりみたいに、絶対的にあかるい言葉だから。そのあかるさを含めてのその言葉というか、概念というか、存在だもの。

 

 自殺する気がないのだ、トオルさんには。自殺をしようと本気で思う人がお願いごとなどしない。トオルさんは、毎日、星に、大地に、神に、なにかにお願い、お祈りをしている。どうか、この小さな世界から私を救いだしてください、と。その願いはいっこうに通じていない。まったく聞き入れられない。と、トオルさんは思っている。でも、それははてしない勘違い。チャンスは、今日もあった。

 

 ピンポーンとやってきた佐川急便のお兄さんはトオルさんの心をざわざわさせた。かっこよかったのだ。シマシマの制服はその人の個性を半減させて、また、その分、肉体の魅力が強調されて、トオルさんはときめいてしまった。そのざわめきは立派な神様からの贈り物だった。ざわつく心を少しでもみつめれば、トオルさんは自分のなかの恋なのかなんなのか、偉大な感情とつながることになる。それは、たったの今のトオルさんにとってはとても苦しいことかもしれない。でも、それはトオルさんが選んだ感情。その感情というか反応は、男を好きな男が共通して抱くものではない。そのざわめきを原動力に、うきうきと街へくりだし新しい洋服を買う人だっているだろうし、思いきって佐川のお兄さんに「好きです」と、軽口をたたいて楽しむ人だっているでしょう。でも、そんなことはトオルさんにはわからない。悲劇のヒロインになって、昭和の文学者のように苦悩の題材にしてしまって、自分を責める力としてしまったトオルさんにはわからない。そんなものだ。この世界は、たったの一人で探険しているのだもの。誰も彼も。だから本当のわかちあいなんてない。一人一人、一卵性の双子であっても違うのだから。それは大変にかなしいようにも思えるけれど、誰ともわかりあえないことは誰にでも共通におこっていることだとしたら、それをかなしいことというのだろうか。「鳥は自力で空をとべるのにどうしてぼくはなにかの力を借りないと空をとぶことができないんだ! そのことが本当にかなしい」と言っているのとなにかが違うのだろうか。

  

 佐川のお兄さんが届けてくれた出版社に届いたたくさんの読者からの手紙がつまったダンボールをあけて、トオルさんはためいきをついた。神様はどうしてぼくをこんなに苦しめるのですか? などと心のなかで問いかけながら。

 

 こうして、一生、生まれてから死ぬまでトオルさんはブツブツと文句をいいながら生きていくのだろうか。彼をとおして生まれた「世界」を愛する人がわざわざ手紙を書き、封筒やなにかにつめ、宛名などをかき、切手をはるとかなんとかし、自分が感じた気持ちを届けたい、と、行動をおこしてくれた人がこんなにもたくさんいるというのに。

 

 とつぜん、雷が鳴りはじめた。あれ、外はそんな天気だったっけ? と考え、天気のことなど今日一日なにも気にしていなかった自分に気がつきまたためいきをつきそうになるトオルさん。雨もふりだした。ピカピカとグレーの空にフラッシュのようになにかが発光し、けたたましい音をたてものすごい存在感のカミナリ様。キャーと小さく声をだしながら、けれど、本当は怖くないトオルさんは庭にでてみる。雷など怖くない。雷がここに、自分におちてくることなどない。だから、ちっとも怖くない。ただ、うるさいだけ。雷鳴はただうるさく、佐川のお兄さんは怖い、トオルさん。

 

 雨はどやどやと後から後から降ってくる。怒っているかのように思えるドラマティックな空は、雷をともない、こちらにどんどん近づいているようだ。あまりに大きな音。さすがに外にいられなくなって、部屋へと戻り、バスタオルで全身をよく拭き、服を着替え大きな窓から雷観賞をつづけるトオルさん。片手にはあたたかいミルクティーなどをもって余裕綽々。

 

 激しい雷雨はますますこちらに近づいてくる。トオルさんはカメラをもちだしてきて窓越しになんどもシャッターをきる。何十回目かの怒号のような雷の音と稲光がほとんど真上のような場所からくりだされた瞬間、トオルさんのどこかに雷が落ちた。その瞬間、突然、何かにとりつかれたように、トオルさんはクローゼットへ駆け出し、いちばんの気に入った洋服にすばやく着替え、大雨の外へ、庭へとびだした。

 

「神様。お願いです! わたしをそちらへ連れていってください! お願いです! お願いです! もうなにもいりません!」

 

 ずぶぬれになりながら、雷にも負けない大きな声で空にむかってトオルさんは声がかれるほどに叫び、願った。真剣だった。目をつぶると、これまでの人生のいくつもの場面が脳裏によぎる。不満が、こうして自らの死を願う最後へと自分を運んだけれど、幸せな瞬間もたくさんあった。優しくしてくれた人もいた。ぼくのことを好きと言ってくれた人もいた。父は寡黙だったけれどぼくの意思をいつでも大事にしてくれた。母は最期までぼくを気遣ってくれた。ぼくの作品に死をとどまった、と手紙をよこしてくれた人がいた。初めてマンガが書店に並んだ日はうれしくて眠れなかった。幼い頃にぼくの描いた絵をほめてくれた先生のあの言葉、あの笑顔。百合子さんと出会った日のこと。猫のチロちゃんが家にやってきた日。去っていたあの夜。家族でいった上海のたのしかったこと。一人でまわった四国で食べた素うどんの喉ごし。大好きな和菓子屋さんでよくいっしょになった素敵なあの男の子。トオルさんは泣いていた。泣きながら、その場に崩れるようにうずくまり天を仰いだ。ドドーン!!!!!!!

 

 死んだ。死んでしまった。本当に神様はいた。と、思った。この真っ暗な世界が死後の世界だ、と思った。動くこともできず、音もきこえず、ここは真っ暗な、闇。時間の感覚もない。本当に、ぼくは死んだのだ。

  

 いったいどれくらいの時間が経ったのだろう。真っ暗な世界に光が差しこんできた。ここが天国か、と、思ったが、なにやら鳥のさえずりのような音が耳にはいってきた。心臓の音がきこえる気がする。体がまだある感覚。目が、あいた。あいてしまった。あまりにまぶしくて、目が痛い。ここは天国? わからない。けれど、よく、よく知っている木がみえる。景色がみえる。音がどんどん耳にとびこんでくる。とても重たいけれど、体が動くことがわかる。ああ。死んでいない。これは、生きているということかもしれない。絶望のようなおもたい気持ち。希望のようなうきあがる感覚。そのまましばらく生と死をぼんやりとたゆたい、トオルさんはびしょびしょの洋服をひきずるようにして部屋にもどった。

 

 生きている以上、しかたがない。と、服を洗濯機へ入れて、熱い風呂に入った。もうなにも考えられなかった。生きていて嬉しいのか、死ねずに苦しいのか。そんなことは考えたくなかった。ただ、ただ、熱い湯船につかり、冷えた体をあたためた。どのくらいそうしていただろう、すっかりのぼせた体で這うようにして台所にいって、何杯も水を飲み、そのまま布団に直行し、寝た。

 

 体はピクリとも動かない。ただ、胸のあたりが呼吸にしたがって上下はしている。生きている。生きた体をここに残し、トオルさんは別の世界にいた。

 

 空をとんでいた。自分に羽が生えているかはわからないけれど、おそらくそういったものは生えていない。だけど、飛んでいる。少しへその下あたりに力を入れると上昇し、力をゆるめると下降する。スピードの感覚はない。気持ちが前へ、と、焦ったようになるとすこし速度がはやくなるような気がする。くわしいことはよくわからない。だけど、不安はない。とても気持ちがいい。

 

 街のような場所がみえた。街、に、関心がうつるとある店のようなところにいた。ぼくのことは誰にもみえないみたい。そこにいる人たちは歌をうたったり、お酒を飲んだり、タバコをすったり、笑ったり、しゃべったり、寝ている人もいたり、さまざま。たのしそうにみえる。あ、すごくカッコイイ人がいる。と、思ったら、その人は目の前にいた。男はすこしゴツゴツした体をして、顔の骨格もしっかりしていて目は大きからず小さからず。彫りがやや深い。口は、とりたてて印象的ではないけれど歯並びはキレイ。男の息はタバコとお酒の匂いがした。なにやらぼくにむかって話しているようにもみえるけれどなにをいっているのかまったくわからない。声は聞こえない。左の二の腕には痣のようなものが少し短めのTシャツから見え隠れしている。濃いグレーのTシャツは肌触りがよさそう。……わ、わからない。この感覚はなに? この人はどんな人なのだろう? どんな人が好き? どんなことに笑うのかな。どんな風に泣くのだろう。泣き顔は? なにをよく食べるのかな。どんな風に食べるんだろう? いびきはかくかな? よだれをたらして寝たりもするのかな。寝起きは? どんな風に好きな人をみつめるんだろう。好きな人いるのかな。どんな裸をしてるんだろう。抱き合ったら? キスしたら? セックスしたら? 怖い!! なに考えているんだ。気持ちが悪い! ……でも、ぼくは死んだんだった。死んだんだからもういいよ。もう、いいよね。

 

 目の前に、母がいた。母は、ぼくのお母さんはニコニコしていた。やっぱりぼくは死んだんだ。「お母さん!」。声になったのかなっていないのかわからないけど、そう叫んだ。母は、ぼくを抱き寄せ、頬を流れる涙を手で拭ってくれた。ああ、お母さん……。ど、どうしてここにいるの? ううん、そんなことはどうでもいいの。お母さん!! また会えて……。うれしいよ……。泣きながら、声にならない声でそれだけを言って、トオルさんは泣きじゃくっていた。お母さんはただ、トオルさんをしっかりと抱きしめ、赤子をあやすようにやさしくゆっくりトオルさんの背中をさすった。

 

 目を覚ますと、布団のなかにいた。いったい今は何時なのだろう、外からは薄明かり。いやいや、ここはどこだろう? 天国でも地獄でもなくこの世なのだろうか……。枕は汗かよだれか涙かで冷たくぬれていた。服はなにも着ていなかった。強烈な二日酔いの朝みたいに、しばらくなにも考えられず体も動かせずただ、浅く呼吸だけをしていた。そうしている間に、外からは鳥のさえずりや遠くのほうでバイクの音。暗かった部屋がどんどんと明るくなっていく。あさだ。あさがやってきたのだ。ぼくはいきていたのだ。あれは夢だったんだ。お母さん……。よろよろと、生まれたての小さな動物みたいに不器用にベッドから這いだし、カーテンをあけた。うまれたての今日の太陽が、一日の到来を力強く伝えている真っ赤なその輝きに圧倒された。ぼくは、生きている。

 

 熱いシャワーをあびると、自分がものすごくおなかが空いていることがわかり、トオルさんは冷凍してあった食パンをとりだし、卵をわって、ソーセージを冷蔵庫にあったピーマンやら玉葱やらといっしょに炒め、コーヒーをいれて、朝食をとった。パンも、目玉焼きも、野菜炒めも、コーヒーも、どれも、初めて食べるみたいにビックリするほどおいしかった。いったい今までぼくはなにを食べていたのだろう? そう思って一瞬かなしくなったが、かなしみを上回るよろこびにそんな疑問は忘れてしまった。ガツガツとテーブルに用意したすべてのものを食べ終わると、深く深く深呼吸をした。それからパチンと両手で両頬をたたくと掃除にとりかかった。床という床に掃除機をあて、それからぞうきんで丁寧に水拭きをし、窓も一枚一枚、すべてふいた。風呂も洗面所もトイレも磨いた。汗だくだった。着ていたTシャツを脱ぐと別のものに着替え、今度はクローゼットにむかい、大量の衣服を引っ張りだしゴミ袋に入れた。次は本棚。次はCD。キッチンの調味料、冷蔵庫、仕事部屋の紙資料もろもろ、靴箱の靴、家中のありとあらゆる場所にむかっていき、それはたくさんのものを処分した。気がついたらお昼になっていた。トオルさんはふたたび風呂場へいき、今度は湯船に湯をはって、入った。

 

 湯船につかっていると、きのうもここにこうしてつかっていたことが思いだされた。生きているのか死んでいるのかわからないような状態で、この、同じ場所に同じ向きで同じような姿勢でたしかに存在したのは同じ自分なのだろうか? トオルさんは、自分が死のうとしたことも思いだした。雷にうたれて死んでやろう、と、雷雨のなかに飛び出したことをおぼろげに思いだした。ぼくは、あのとき、ほんとは死んだんじゃなかろうか? あの夢はほんとうに天国か地獄の世界で、今、こうしてここにいるのはあの世でみている夢みたいなものなんじゃなかろうか。トオルさんはこうも思った。本当は死んでいて、この世に未練が残っていて成仏できずに戻ってきた霊のようなものになったのではないか? と。その考えが浮かぶと同時に、その未練はなんなのか、と、疑問がわいてきた。答えはすぐにわかった。誰かを思いきり好きになって、その人のためにいろいろなことをして、できればその誰かから同じように好きになってもらいたい。ということだった。トオルさんは胸のどこかがギュとしめつけられるように苦しくなった。頭を湯船のなかに深々ともぐらせ息をとめた。

 

 数分後。ブハー! トオルさんは湯の中から飛びでて、ゼーゼーいいながら息を吸った。「死んだ」。「ぼくは死んだ」。「生まれた」。「ぼくは生まれた」。「よーし!!!!」。暗号のようにそれだけいうとザブンと思いきり水しぶきをたてて風呂をあがった。

 

 トオルさんは、昼食を外に食べにいく、と決心していた。歩いて駅前までいってなにか食べてやろう。昼からビールでも飲んでやろう。シャンパンだっていいぞ。そうだ、オシャレをしてやろう。昼ごはんのために、オシャレしてやるんだ。もったいぶってつけてなかったあの香水だってすればいい。お金もばんばん使うぞ。そうぶつくさ言いながら、支度にとりかかり、30分もしないうちに揚々と玄関をでていった。

 

 これは、トオルさんのはじまりの午後だった。ひとりでランチをして、駅前のデパートや商店をのぞいてはなにかを買い求め、あの死にたがっていたトオルさんはこのあかるい午後に死んでしまったようだ。どこかへ消えてしまった。帰路。大量の荷物をかかえて乗り込んだタクシーで、これまで一度もなかった運転手と天気以外の話に応じるどころか、自らの話などもし始めて、運転手の身の上なども聴き、用などない別の場所を経由してもらって時間稼ぎをするほど会話に夢中になっていた。名刺をもらい、少し、待っててください、と言って到着した家にいったん戻り、自分の名刺を渡しさえした。それは人生で初めての経験だった。

 

 その夜はトオルさんのまま過ごした。お酒ものまなかった。晩ごはんは寿司の出前をとった。寿司を食べ終わると、買ってきた小さなホールのケーキにろうそくをたて火を点し、電気を消して、火をふきけした。ろうそくは1本だった。今日は、トオルさんが決めたトオルさんの誕生日。ハッピーバースデートゥーミー! ケーキにはチョコレートでご丁寧に「トオルさん1才おめでとう」とかかれてあった。おめでとう、と言い、ありがとう、と言い、トオルさんは泣いた。そして笑った。もう何も怖くないような気分だった。最高の夜だった。このまま死んでもいいくらいに満足だった。抱きしめるような気持ちでベッドまでケーキを運んで、もう一度ろうそくに火をつけて吹き消し、気絶するようにベッドに倒れ込み、あっという間に大きな寝息をたてはじめた。(おわり)

 

 

 


ロバの耳

あかねさんがため息をついた。
ちいさいちいさいため息は私に向けられてはかれた。
その後のことはあまりよく憶えていない。
しっかりと、その日、その場所で私に与えられた、
やってくるお客さんを笑顔で迎え、お水とメニューをだし、
注文をとり、注文を厨房にとおし、配膳し、
食べ終わった食器などを片付けお会計をする、
という役目を果たせたのかさっぱりわからない。
そのあかねさんのため息は、私をそんな風にだいなしにしてしまった。
あかねさん。あかね。あの女。

あの女は、ただ数週間、私よりもこの店に早く面接にやってきて、
私よりも数週間早く仕事を憶えはじめ、
私より数週間、この店に長くいるだけだというのに、
私のことをそうして責める。
責める権利をもっている、という風にふるまう。
私もそれを受け入れる。だって、仕方がないことだから。
けれど、やはり、それはストレス。
あの女は、私と同じ年で同じ大学に通っている友だちでもある。
でも、それは外の世界の話。この世界ではあかねさんは私の先輩。
 
ため息は、
私がいつものように少し
お水やメニューを出すタイミングが遅かったことが原因と想像する。
ただ、それだけのこと。でも、私は、とても落ちこんでしまう。
ちいさいあの空気がもれる音に。
その音をだした、だそうと決めたあの人のその心の動きに傷つく。
あかねさんが嫌いだ。私は、そう思った。
そう思って、心のなかでわら人形をこしらえて、釘をうった。
何度も、何度も、
お水をグラスに注ぎながら、
スパゲッティーを運びながら、
シフォンケーキに添えられた生クリームが残っているのを
横目で確認しながら、何度も何度も。
それは、私にとって仕方がないこと。
でも、もちろん気分はよくない。
あかねさんを心のなかで殺そうとたくらむ私のこの醜さは私を苦しめる。
でも、ほかに方法をしらないのだからしょうがない。
 
帰り道。あかねさんは笑っている。
ふつうに、
今日のお客さんについてああだこうだ、と言いながら、笑っている。
私もそれに頷いている。
あかねさんを傷つけたくないから、ニコニコとそれを聞いている。
でも、ほんとはなにも聞いていない。
あかねさんのつまらない話なんて聞いている余裕はない。
その話と、私はなにも関係がないから。
私の今日のここでの世界にそんな客はいなかった。
ただ、あかねさんと私がいただけだった。苦しい。
笑顔でしらない話を聞いているのは苦しい。
ようやく駅についた。
あかねさんは上り電車にのって彼女の住む町へと帰っていった。
私はホームの階段をおりてふたたび改札をでて、
趣味の悪い人形がたくさん飾られている喫茶店にいった。

「いらっしゃい」
 
いつものまったく愛想のないこの「いらっしゃい」を聞くと落ちつく。
笑顔のかけらもない、心のこもっていない「いらっしゃい」。
そうか、そんな風に、心がこもっていない挨拶が嬉しい人もいるのだ、
と、私は、私の反応を冷静にみつめ、そう思った。

この店はいつもうるさい。
お客の話し声ではなく、
クラシックのレコードが大音量でかかっているからだ。
だから、最初の「いらっしゃい」も本当は聞こえていない。
ただ、口がそう動いているのをしっているから私にはそう聞こえるだけ。
 
「アイスティーを」

こちらも無愛想に頼んだ。
ああ、癒される。
ロボットみたいに愛想なく言い放てるこの解放感がたまらない。
注文したアイスティーはすぐにやってきた、
とても趣味の悪いグラスに注がれて。
 
アイスティーをとりあえず一口飲むと、
私はたのしみにしているあのノートを探しに席をたつ。
この悪趣味な喫茶店はさらに悪趣味なことに、
ださいペンションにあるような、
お客たちが好きなことを書き込めるノートがある。
私はそれを何の感情もないようなふりをして素早く手にし、席に戻る。
 
10月9日。あの女がまた私をバカにするようなため息をついた。私はだから言ってやった。あんたのため息、臭いんだけど。昨日、何食べたの? その匂いこそお客さんに迷惑なんじゃないの? って。女の顔が真っ赤になった。リンゴみたいに真っ赤かに。だから私は言ってやったんだ「リンゴちゃん」って。
 
私はとても饒舌に、ペンをはしらせる。
気がつくと時計は11時の針をまわっていた。
「そろそろ行かなくちゃ」。
そう、いつもの締めくくりの言葉を書いて、
ノートを閉じて、元の位置に戻した。
 
家では猫が待っていた。
ニャー! と、うるさく私を呼びつける。
餌が欲しいことはわかっているのだけど、その鳴き方が気に入らない。
あんたまでどうしてそんな風に私に偉そうにいうの!
猫は一瞬、私の剣幕に驚いた様子を見せたが、
またニャーと怖い顔をして鳴いた。
 
あかねのことはもう忘れた。と思っていたけど、また思いだしてきた。
テレビを見ていたら、あの女のような化粧をしたタレントが
調子のいいことを言っているのを見て、一気に思いだしてしまった。

テレビはたのしいときもあるけれど、たのしくないときもある。
テレビから流れるニュースやドラマやその他もろもろ、
ただ、ぼんやりと眺めているといつの間にか
テレビを見る前よりも
何倍も気持ちが沈んでいることに気がつく日がある。
子供のころ、
親からテレビは「1日2時間」と言い渡されていた私にとって、
テレビは贅沢な娯楽だった。
だから、無条件に自分をたのしくしてくれるものだと思いこんでいた。
けれどどうやらそれは違うみたい。
流れてくるCMだってうっかりしていると私を傷つける。
「そのお腹のお肉、大丈夫〜?」とか
「ガンになったときのこと考えてる?」とか、
お嫁さんにしたい人ナンバー1みたいなタレントがかわいい声で、
満面の笑みでたのしげに呼びかけてきているけれど
言っていることただのは呪いの言葉じゃない? と思う。
さっきまでたのしく果物なんか食べたりしていた気分が台無し。
あ、この果物の糖分で病気になるかも。
あ、病気になったりしたら入院代どうしよう?
休学したらいくらかかるんだろう?
バイト先にも迷惑かかるよな、今、人が足りないのに。
もう、あの果物をおいしく食べていた時間には戻れない。
でも、テレビはそんな私の時間に責任はとってくれない。
もう、あのCMはとっくの昔に流れてどこかへいってしまった。
 
私はもともと笑顔が上手につくれない女だ。
面白くないことをニコニコと聞けるような女ではない。
だから友だちも少ない。
携帯電話のアドレスには数百人の名前があるし、
毎日たくさんのメールをもらったり送ったりしているけれど、
私のことを本当にしっている人はほとんどいない。
ただ、ゼロではない。
小学校からの友だちのかの子は、私のこの汚い、
闇のような部分をしってくれている大事な存在。
でも、かの子は今、ここにいない。イギリスに留学中だ。
だから、あの頃のように、無敵、と思える心強い毎日が今は送れない。
かの子は元気だろうか?
 
今日は大学は休み。いや、休みにしている。
2限が本当はあるのだけど、ダイヘンをお願いしている。
4人でローテンションしているので授業に出るのは月1回でいい。
でも、私、なにやってるんだ? 
そんな真面目な私は今はお呼びじゃない。
バイトに行かなくてはいけないから。
あと1時間で家を出ればギリギリセーフ。
さあ、今日はなにを着ていこう。
火曜日は、私の好きな裕介さんがキッチンにいる日だ。心がはずむ。
裕介さんはとにかく優しい。
昔、いじめにでもあったことがあるのでは? と
想像させるほどにいちいち言葉が優しい。
私は、裕介さんがいるからあの店で働いているのだと思う。
もし、いなくなったら? と考えると
目の前が暗くなるくらいに頼りにしている。
なのに、今日は、なんと裕介さんは風邪で休んでいた。
私は全身の力が抜けるのを感じた。でも、バイトをやめたわけじゃない。
大丈夫、大丈夫。

あかねさんがいない日は問題がない。
あたりさわりのない穏やかな時間。
お客さんもあまりこなかったので楽だった。
いつもこんな感じに過ぎていけばいいのに、と、思う。
でも、そうはいかないこともしっている。
あかねさんがいるからだ、この店には。
あかねさんと私は学年がいっしょだから、
このままどちらかが留年したりしなければ一緒に社会にでる。
就職活動の話もきっとこの店で、仕事のあとやなんかになされるだろう、
と考えると胸がざわざわする。
こわい。こわい。あかねさんがこわい。
 
私があかねさんを怖くなったのは、3ヶ月まえのあの日だ。
あの本当に忙しかった日曜日の午後、
みんなの前で私のことをヒステリックにしかったあの午後3時。
私は初めてのちゃんとつづいたこのバイトを
好きだ、と思いかけていた頃だった。
仕事もだいぶ憶えて、後輩もできて、
自分のなかでイイ感じになってきたところだった。
なのに、そこへ、あの女が、私のことを怒ったのだ。
「もう! ありえないから!」って。
ただ、それだけのこと。
あかねさんに悪気はないんだよ、って裕介さんも言ってくれたし、
私もそう思ったし、
あかねさんだって「今日はごめんね」って謝ってくれたけど、でも、
私はどうしても許せない。どうしても心がひらけない。
そのことが辛い。そんな私が許せない。
あ。また、このループにはまってしまった。
 
火曜日は、いつもは裕介さんと店が終わったあとに喋るのだ。
音楽をかけながら、ビールなんかもちょっとだけ飲んだりして。
でも、今日はいないからすぐに帰ろう。
と、思ったら、店の電話がなった。

「もしもし」。

ドキドキしながらあまり鳴らないこの店の電話をでると
あかねさんからだった。

「もしもし、由子ちゃん? あかねです。そこに裕介くんっている?」。

私は動揺してわけがわからなくなって
「いません!」と言って電話を切ってしまった。
するともう一度電話がなった。
今度は動転する私に気づいた浩二くんが電話にでてくれた。
「なんか、ちょっと酔っぱらってて。気にしないで。こっちは大丈夫だから」

というようなことを言って、
裕介さんが風邪で今日は休みで自分が代わりに遅番に入った、
というようなことも伝えて電話をきった。
 
「どうしたの? 大丈夫?」
 
ちょっと怖いものにふれるようにこわごわ私に近づいてきてそう聞いた。
私の張りつめていた糸が切れた。
あかねさんが怖いこと。そんな自分が許せないこと。
でも、どうしてもふつうに接することができないこと。
心のなかで何度もめぐったその負の連鎖について
一つずつすっかり浩二くんに話してしまった。
こんな風に同じ職場の人にあかねさんのことを言ってしまったことを
早くも後悔しながら私はうつむいて黙った。
 
「へー、そうなんだね。でも、わかるよ。俺もあるし、そういうこと。あかねちゃんにじゃないけどね、学校の友だちとか、地元とかでもそういう、なんていうかどうしてもダメな奴っているからさ。普通じゃない?」
 
「え?」。思わず聞き返した。
それがあまりにも予想外の答えだったし、
予想外の浩二くんからの言葉だったから。
 
「音、うるさい? ごめん、ちょっと下げるね。えー、だから、わかるよ、その気持ち。俺もぜんぜんそういうことあるから」
 
聞き返して、良かった。
やっぱり私の聞いたことは空耳じゃなかったんだ。
 
「ごめん。さっき、ホントは聞こえてた。でも、もう一回聞きたくて。ごめんね。なんか、すごい、ありがとう……。浩二くんにもそんな風に誰かのこと嫌いになりたくないのに自分の気持ちがコントロールできないことがあるんだ? ぜんぜんそんな風に見えないから」
 
「あたりまえじゃん! 誰だってあるんじゃない? いや、わかんないけど。俺も昔、みんなに好かれてる人気者みたいなヤツのことがどうしても好きになれなくて、でも誰にも言えなくて苦しくてさ。それこそ『王様の耳はロバの耳〜!』っていうの、しってる? あの話みたいにもう誰かに言いたくて言いたくてたまんなくなってさ、あるとき酔っぱらったふりして言ったんだ。いや、ほんとに酔っぱらってたんだけど、ふりっていうかなんていうか。そしたら、その俺の告白をきいたヤツがさ『わかるよ』って言ってくれてさ。あんときすげーホッとしたんだよね。思わず、そいつをギュって抱きしめちゃったくらいに」
 
うん、うん、と、声にださずにうなづきながら聞いていた私だって
浩二くんを抱きしめたくなった。
でも、体はそんな風に大胆に動かなかった。
代わりに口が「ありがとう」と動いた。
 
「浩二くん。ありがとう。聞いてくれて。聞かせてくれて。ありがとう。……そっか。そっか。浩二くんにもそういうことがあったんだね……。私だけじゃないんだ、そういうこと。話してくれてほんとにありがとう」。
 
その日はそのまま店の近くの居酒屋に二人で行き、
『今日だけ。そしてオフレコで!』と言い合って、
互いの嫌いな人の悪口を存分に言い合い、
そのあまりの言葉の汚さ、自分の醜さを笑い合った。
私は、なんだ〜、って、思った。
そんなことか、って思った。
もしかしたらみんな、たいした理由もないのに人を嫌いになったり、
人を嫌いな自分を許せなかったり、
そんな気持ちを誰にも言えなかったり、
誰にもしられちゃダメだ、って思ったりしているのかも、って。
そんな風に思ったら、なんだかあかねのこともどうでもよく思えてきた。
 
「あかねさ〜ん、のことがきらい〜。だいきらい〜」
 
最寄り駅からの帰り道、
私は大嫌いなあの人のことを適当な節をつけた適当な歌にして、
ご機嫌に歌いながら帰った。
(おわり)


ゲップ

映画はとてもおもしろかった。

そんな映画のあとのおしゃべりはまた格別だ。

だけど、今夜はそんなに面白くない。

またあの女がくだらないことを言いだすから。


「あの女優の目は整形かな? 目頭の感じがおかしいし。あ、弟役の人、かっこ良くなかった? アタシ、ああいう口、好き。格好もああいう人がいい」

 

さあ、はじまった。

いえ、別にいいのです。

女優さんの整形は私も気になったし、

私もああいう服を着たような男の人に目がいくから。


そう、私たちは友だちだし、趣味もあうし、仲良しだし、親友だし。

でも、やっぱり、そんな話が開口一番でてくると、ゲって思う。

つまんない気持ちになってしまう。

そんな私の顔色をさっと察知してか、

あの子がこちらをきっと睨むように見る。

私はその視線に気づきすぐに笑顔をみせる。

 

「もー、ほんとに私もああいう服きた人がいい〜! どこにいったら出会えるかね?」。

 

私の口は、はしたない。

軽蔑しながらも同調するのだから、こんな風にあっという間に。


「知らない」。


あの女はそれだけの返事。

あいかわらず冷たい。

でも、本当は優しいことを私はしっている。

いつも私が困っていると相談にのってくれるし。

ほら、今日も、私がありすぎる種類の飲み物を迷っていると

彼女が決めてくれた「生ビール2つ」。

 

むかつく。むかつく。むかつく。

ビールのせいだ、きっと。

このなにもかも吐き出してしまいたい衝動はきっとビールのせい。

私はまだ全快じゃなかったんだった。冷えたビールが体を冷やす。


帰りたい。

帰って風呂に入ってふくらはぎをマッサージして寝たい。

パジャマに着替えたい。ああ、むかつく。

「え、ごめん。ちょっと聞こえなかった」。


また、嘘をいってしまった。

聞こえなかったわけじゃなくて聞いていなかったのだ。

ゆう子の言い草を聞いていたらとても聞く気になれなかった。

 

「やっぱりステータスって大事じゃん? 結婚したいけど仕事もしたいし、でもそこまでバリバリ仕事をするのも疲れそうだからある程度年収がないとムリ。子供だって貧乏な男と結婚したらつくれないでしょ? だって、ムリじゃない? なんかユニクロとかシマムラとかの服ばっか着てさ、子育てとかいって。そんなの幸せじゃなくない? 智子は平気かもしれないけどアタシは絶対ムリ。第一そんな貧乏だったら子供も可愛そうだし」。


この女は本気でこんなことを思っているんだろうか。

はっきりいってバカだと思った。

なんで私はこんな女と友だちなんだろうか、って思った。

類は友をよぶっていうけど、嘘だと思う。

でも、私は言ってしまうのだ。「わかる〜」って。

 

ゆう子にだっていいところはある。たくさんある。

いつだって私にメールをくれたり電話くれたりして気にかけてくれるし

恋とか就職とか、未来のこととかいろいろ、

いつも私以上に私のことを考えてくれるし。


でも、

それ、

本当はすごく嫌。

むかつく。親かよ、って思う。

ていうか、親でもそんなこと言われたくないって思う。

 

「智子はさ、サラリーマンがあってるよ。絶対浮気しないような真面目な人。それですぐに結婚して世田谷とかにマンション買ってさ、子供は二人って感じ。なんか、今、すごい想像ついた! 智子がベビーカー押してる姿。なんか幸せ、って感じした。いいね〜、きっとこれ、正夢? 夢じゃないけど現実になるよ! うん、絶対」。

 

なんで私はこんなことを言われているのだろう。

絶対、とか言ってるけど、お前、ナニサマだよ、って感じ。

 

「ゆう子も子供ができたらいっしょに公園デビューしようよ!」

 

「ていうか、私はバリバリ働くからさ、子供は後ででいいや。智子の子育てが落ち着いた頃に生むからさ、たまに面倒みてくれない?」

 

絶対に嫌。ファック。


「私、変なこと教えるかもよ? アハハ」

 

「そしたらアタシ、キレるよ。子供に関しては私ギャグとか通じないから」

 

殺してしまうかもしれない、とすら思った。ゆう子の子供。親友の子供。

なんだろう、この気持ち。このダルい感じ。

熱がまだ下がらないって嘘をつけば良かった。

映画も気持ち悪い場面がいっぱいで思いだしたくもない。

 

「ナマ2つ〜」。

 

私の分をまた頼んでいる。

ゆう子、死なないかな。明日、死なないかな。

 

「乾杯〜」。


バカみたいなのは私。死ねばいいのは私。

私、親友がいる人生に憧れてた。

いつも一緒にいられて、彼よりも大事な親友。

子供のころに見た

テレビドラマのあの二人みたいに缶ビール片手に夜明かししてさ、

いっしょに泣いて、笑って、そんな親友。

なんで、私にはゆう子なんだろう。なんで?

ゆう子はトイレに行ってしまった。

どこかホッとしている私。こんな親友関係。

 

「そろそろここ出て、もう一軒行かない?」

 

「いいねえ。でも、ごめん。まだ、ちょっと風邪が完全に治ってないみたいだから帰ろうかな」

 

「ふーん。そう。」


「じゃあ、一杯だけなら」

 

「いいよ、いいよ、ムリしないで! ごめん、ちょっと淋しくなっただけ。ていうか、風邪、お大事に!」


 

解放。

やっと一人になれた。

友だちといない私。


ゆう子はあっという間に別の友だちを誘い、行ってしまった。

週末の夜の街に風邪気味の女が一人。

この女はさみしい女に見えるだろうか。「さみしくなんかない」。

 

家に帰ると、戻した。

ゆう子と飲んだビール、

鶏の軟骨、

フライドポテト、

たこわさ。

サバの味噌煮。

おしんこに抹茶アイス。エトセトラ、エトセトラ。

涙を流しながら戻した。

体はいい。こうしてわかりやすく吐き出してくれるから。

でも、心はそうはいかない。

ゆう子の呪いのような私へのやさしい言葉が吐き出せない。

 

「智子は大丈夫だよ、きっといい彼がみつかるよ。真面目で優しい彼が」。

 

決めつけんな! 

 

「今日のそのスカートの色、智子っぽくなくない?」。

 

黙れ! 

 

「智子のことが大好きだから、親友だから言ってるんだよ?」。

 

やめて! もう、やめて……。私のこと縛らないで。

あなたのその言葉で私のことを殺さないで。私の夢を壊さないで。

お願いだからもう、これ以上私に近づかないで!


……でも、そんな酷いこと、言えない。

私のことを思ってくれる人にそんなこと。

 

風呂場に行くと、湯船にお湯ははられていなかった。

ゴーゴーと蛇口から出るお湯はそのままゴーゴーと排水溝に流れていた。

 

「バカ。バカ! バカ!」

 

バカな私は蛇口をさらに逆にひねり、

ゴーゴーとますます大きな音をたててお湯が流れていく。

私の涙腺もネジがバカになったように涙があふれてとまらない。

とめることができない。

 

「私、もう、これ以上、自分に嘘をつけない。だから、ごめんね。さよなら」。

 

智子のことを考えて口をついた言葉はまるで別れ話のようだった。

 

……なんか、恋人同士みたい。……あ。べつに、別れたっていいんだ、友だち同士だって。距離をおきたい、とか、関係を考えたいとか、価値観がやっぱり合わないとか、そういうこと言ったっていいんだ。私にも、フる権利はあるんじゃん。ムリしてつきあうこともないかもしれない。それこそ子供がいるわけじゃあるまいし)。

 

智子の心が一気に喋りだした。

 

「ごめん。ほかに好きな人できた」。


(これは意味わかんないかも。笑える。でも、誰を好きになってもいいんだよね、きっと。なんだ、そうだ、おんなじゃん。恋人も友だちも人間関係だし。他人だし。ていうか私、ゆう子のものじゃないし。いつかできる彼氏のものでもない。私、もういいや。もういいかも。もう今日は風呂もいい。やめた。やめた)。

 

饒舌な心に背中を押されるように智子は風呂場を勢いよく後にし、

濡れた体を乱暴にバスタオルで拭きながらキッチンに向かった。

冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールをとりだし一息に飲み干すと、

大きくて長いゲップをした。

「ふー生き返る〜」。

智子は笑った。



(おわり)

 



 
 雨が街を洗い流していく。浄化の雨。この雨でたくさんの植物が息を吹き返す。傘を売る店の主人が張り切る。動物園の動物たちも嬉しそう。あの家のやっと歩けるようになった小さな男の子は一心不乱に窓から外を眺めている。ちくしょー、雨かよ、なんて言いながら、吸いかけのタバコを投げるように捨て、濡れない場所へと走るサラリーマンの姿。大好きな体育の授業ができなくて凹む男子たち。雨は、平等。晴れも平等。平等にその土地に生きる人々に空は、地球は、雨や風や雷や雪や風やかんかん照りや吹雪なんかを与え続ける。飽きないように、生きることに退屈しないように、すべて一回限りの大盤振る舞いのアート。それを、今日の、たったの今の自分の都合で舌打ちすることの身勝手をどれだけの人が自覚しているのだろうか。その姿勢で生きて出会う出来事に善し悪しをつけることに何の意味があるのだろう。雨はまだまだ降り続き、街は傘のカラフルな表情。真っ赤な傘、水玉、ビニール傘の蛍光色。上らか見たらどんな模様を描いているのだろう? そんな想像をしながら、珍しく今日は歩いて家に帰ったトオルさん。道中の草木がキラキラと輝く。いきいきと呼吸をしている。足下はグチャグチャ。靴のなかも水びたし。子供のころの気持ちをどんどん思いだしながら、若返りながら、わが家に到着し、すぐに風呂に入って寝た。

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