7冊目

 

Instagramに投稿し、それをFacebookに連動させてみているのですが、

どちらの世界のぼくの関係者にも、7冊の中でいちばん響いていなさそうだったのがこの本。

紹介者として、この本の魅力を伝えられなかったのならすごく残念!

だって、この本、ほんとにすごく面白いのに。

だって、この表紙、ほんとにかわいくないですか?

 

でも、それがセンスというもの。価値観というもの。

そういうことを思い知るよい機会でもあったな、ブックカバーチャレンジ。

 

個人的にこの企画の真骨頂は、「#ブックカバーチャレンジ」にあるのではないかと思った。

インスタでこのハッシュタグで検索すると、それはもう色とりどりの本がでてくる。

古いのも新しいのも絵本も写真集も哲学書も。

そして、その写真の撮り方にもセンスはもちろん、意図みたいなものが感じられて面白い。

 

気になった本をひらき、その人のプロフィールをみたりして、

この本が好きな人とは気が合いそうだなとか、

いつかどこかで出会うことがあるかもね!などと妄想したり、飽きない。

でも、飽きた。

 

人の本にもっと興味をもつかと思ったけど、そんなに興味がないということを知った。

本なんて、別に読まなくていいなら読まなくていい。

ほかにいくらでもやることはあるし、なにもせずに寝る贅沢を贅沢とぼくは思う。

だから、あえて、面白そうな本を知ろうと情報収集する必要性を感じなかった。

出会うべき本とはどうやったって出会うって思っているみたい。

必要な情報は、どうしたってやってくるに違いない。

 

うれしかったのは、まだ会ったことのないゲイと思しき若い男の子が、

ぼくの投稿を見て、本を購入してくれたこと。

これはわが思い込みではなくて、その人から「のむらさんの投稿を見て買ってみました」と、

ご丁寧にメッセージがあったから。

それは、とてもうれしいことだった。

 

最近、わたしの占星術の師匠に昨年の秋に個人鑑定を受けた際に言われた、

43歳の間に、自分が何を求めているのかとじっくり向き合うといいと思いますよ。

44歳は、おそらく浩平さんにとって流れが早い年になるので。

 

というメッセージを、なんとほぼ毎日のように思い出している。

でも、わからない。いや、わかっていると思っていることが更新されない。

ずっと同じところをグルグルしている。

でも、最近、また本との出会いがあり、そこに記されていた言葉に、

見えなかったなにかが見えてきている感じがある。

 

なにを書いているかわからなくなってきていますよね、完全に。

ええと、そう、その男の子がそうメッセージくれたことにより(それだけではもちろんないが)、

ぼくが、この人生のよろこびと感じることは「コミュニケーション」にあるのだな、

ということを強く感じたのであります。

 

一方的でもけっこう平気なんだけど、

たとえばこのブログとかぼくとSさんとあと数名くらいしか読んでいないんじゃ?

って思ってしまうけど、でも、別にそれはそれとして投稿に支障はない。好きでやっている。

だた、反応があると、格段にやる気がでるし、血が喜ぶって感覚。

自分が肯定されたとか、そういうのともまた違うんだけど、

誰かのなにかの足しになったかもしれないことが嬉しいんだろう。

 

自分勝手に生きているし、わからないが死ぬまで自分勝手に生きていく気がしてきたこの頃だけど、

ぼくにだって、誰かや社会の役に立ちたいという気持ちはあるのだった。

ただ、そうした役割よりも自分が大事っていうだけ。役割<自分

 

無理して人や社会に尽くしても表面的には「マイトレジャー」みたいに言えるかもしれないけど、

絶対そんなことは長く続かない。ストレスが粉雪のように降り積もっていつしか、

もう嫌だ! とすべてを捨て去ろうとしてしまうだろう。

というか、そうしてぼくはいろんなことを投げ出してきた(恋人と別れたり、仕事をやめたり)。

 

って、本の紹介をしようと思っていたのだった!

 

「山頂の聖人」という本は、小学生でも読めそうなくらいに平易だけど、

わからないが、お坊さんとかが読んでも気づきや共感が多々あるだろう、みたいな本。

簡潔で、1話が数ページながら、抽象的でもなく、わかりやすい。

 

実はというか、きのう久々にキャンバスに絵を描いたのですが、

振り返ってみたら、約半年ぶりの絵だった(紙にペンとかでパっと描くのは描いてたけど)。

今年はじめての絵だった。

 

ここ数ヶ月は、ロングスパンのライターの仕事に始まり、

コロナ自粛生活とつづき(5月の展示は延期。1年後の展示はそのお店が閉店となった)、

どうも意識が絵よりも作文に基本的に向いているようで、

小説を書いてみたいなとか思っているのであります。

いえ、実際、友だちとメールに交換日記みたいにして短い小説をバトンし合う(?)ってことを4月に始めて、

だから、ほぼ毎日短い小説を書いているのですが、

書いていて、小説を書くって行為というか、回路の面白みみたいなものを感じ始めているのである。

 

うまく言えないけれど、

目に見えない思いとか考えという四次元エリアに、書くことでつながり、

そうしてアクセスするところにある「何か」。エネルギーみたいなものを、

言葉というものに落とし込む行為というものをぼくは好きなのだな、というか。

なんだか、書きながら自分の中に潜んでいた感情みたいなものが湧き上がる感じも、

ふしぎだし、インタレスティングやなー、と思う。

 

そう、ぼくが小説を書くとき、この本が理想のひとつだな、って思うのです。以下Instagramの投稿の一部。

 

この本を思うとき、井上ひさしさんの「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」という言葉が浮かぶ。「山頂の聖人」は、まさにそんなお話。疲れてしまったときは布団にもぐってペラペラ読む。すると、見たことも行ったこともない聖人のいる山にいざなわれ、心が気持ちよくなっていく。ああ、そうだった、人間はいろいろだし人生にはいろいろあるし、それでいいんだった。って起きあがる元気が戻ってくる。

 

最後に、パっと「山頂の聖人」をひらくことにする。

 

聖人さま、お言葉を返すようでございますが、今までお話ししましたように、あの女はすでにわたしくしをひどく傷つけているのでございます。聖人さまは何かお考え違いをなさっているのではないでしょうか」

 

「だが、わしの目には、あなたはどこも傷つけられていないし、自由で何も問題がないように見えるがの。あなたはこれまでの体験を通して真実の友というものを見つけなさったにちがいない」

 

「あ、ええ。まあ、そうではございますが」

 

「あなたの人生は虚飾をはがされたおかげで、残された部分は純金のように輝いておる。あなたは健康で頭が良く、強い。とても幸運なお人だ」

 

115ページ 第23章「いじめられる女」より

 


6冊目

 

ぼくと精神世界というかスピリチュアル世界の付き合いはとても長い。

覚えているいちばん古いそうした世界の本は、たぶん小学5、6年生のときに買ってもらった、

スーパー能力が身につく本」というもの。

 

この本は文庫本よりも小さくて、子どものお遊びみたいな雰囲気だったけど、

今にして思えば、完全に「引き寄せの法則」みたいなことが書かれていた。

記憶力の乏しいぼくにしては超珍しく、そこの部分の内容だけ強く覚えている。

なぜかといえば、ぼくはその”引き寄せ”を実践していたから。

たしか、その手順は以下のようなものだった。

 

・思いつくままに自分の望みをノートに書き出す。

・願望のトップ10だかに関しては、望みを具体的に細かく挙げる。

・週に1度はその願望をチェックし、順番を入れ替える(その時の自分の望みを確認する)

・目をつぶって願望が叶っている様を思い描く。

・絵などに描いてみる。あるいは写真を切り抜く。

・願望が具体化されたイメージ写真(絵)を持ち歩き、繰り返し眺める(無意識下に浸透させる)

 

ね。まさに2010年代に大流行した「引き寄せ」そのものみたいですよね。

 

当時、自分の容姿に今よりもうんとコンプレックスを抱いていたぼくは、

恥ずかしい告白をしますと、

光GENJIの佐藤アツヒロの写真を理想として「明星」から切り抜いてもっていた気がする。

(べつに、とりわけ佐藤アツヒロが好きだった気がしないけれど、何かに憧れていたのだろう)

 

それ以降、しばしスピリチュアル本からは縁遠くなったのち、

20代の後半くらいに、自己啓発本からふたたび目に見えないロードに入り、

30歳で、今の彼、ミッチーと出会ったことにより、一気にその世界への意識が強まる。

 

というのもミッチーは、

それまでのゲイデビューから5年間くらいの恋愛で得ていた手応えみたいなものがまるで得られず、

当時のぼくには、不可解極まりなく、けれど抗い難く惹かれてしまい、発狂しそうだった。

恋愛マニュアルみたいなことにはこの人生で一度も執心したことはないぼくは、

彼と両想いになるには、自分の精神世界と向き合うしか術はないと思い込み、

スピリチュアル本にならい、ノートに自分の内面の声をひたすら書き出し客観化したりしていた。

その甲斐あってか、どうにか彼と付き合うこととなり(付き合ってからも相当悩んだけど)、今に至る。

 

前置きがスーパー長くなりましたが、

30歳からの10数年、少なくとも何十冊、下手すると3桁のそうした本を手にしてきた中で、

たった一冊だけ選ぶとしたら、ぼくはこの「あるがままに生きる」を選ぶ。

 

ぼくの傾向として、難解な言葉は苦手で、読解力の問題なのか、

いってみれば中学生でも読めて理解出来るくらい本がありがたい。

知りたい、興味のあるジャンルは、しかし精神世界なわけで、

ゆえに、言語化がむつかしいものがめちゃくちゃ噛み砕かれ、

平易に綴られているという貴重な本を、とても大事にしている。

 

「あるがままに生きる」は、著者の足立幸子さんの講演を書籍化したものらしく、

難しい言い回しとかは出てこないし、お話を聞くように、さらさらと読める。

そして、とても実際的というか、実践的なことが書かれている。

 

ぼくは思うのですが、

もしも神様という存在が人間に何かを伝えようとするのなら、

決して難解な言葉を使わないのではないか、と。

人を選ぶような形では伝えないのではないか、と。

いや、もちろんどのような形であれ、全人類が等しく理解できるものなどおそらくない。

だから、すべては選ばれた人のみが受けとるメッセージなのだとは思う。

でも、思う。

本当に大切なことは、きっと複雑なはずがない。とてもシンプルなことに違いないだろう、と。

 

以下は、Instagramのときの文。

 

30代から10数年の読書のほとんどは、スピリチュアルというか精神世界の本という私。とにかくそういうのが好きみたい。たくさん買ってはたくさんリリースしてきたけど、一度も手放そうと思ったことのないぼくの中でのマスターピース。

どう生きたら? などと、性懲りもなく人生に"正解"を求めてモヤモヤするときに、結局たどりつくのがこの言葉、「あるがままに生きる」。では「あるがまま」って? という疑問には、生きていきながらその都度自分なりの答え(応え)を出せばいいのかな、って今日は思う。

著者の足立幸子さんは本によると、1993年6月に故郷のプレアデス・タイゲタ星に帰星されたとのこと。そんな足立さんの動くさまをどうしても見てみたく、講演DVDを買ったところ、早口で軽くって、なんだか平野レミさんみたいだった。そうして、ますますこの本が好きになりました。

 

 

 


5冊目

 

この小説のことは何も知らずに手に取った。

たまたま入った目黒の古本屋にて手に取った。

本を買うことは好きだけれど、それを読むのは別問題。

家に持ち帰ったはいいけれど、まったく読みたいと思えない本というのもある。

よく吟味したはずなのに、

それを購入したときの自分は別人というくらいにひとかけらも読みたくないことがあるというのは、

実にふしぎなだな、とよく思う。

 

それを読む自分は「理想のわたし」で、現実のわたしとは乖離しているのかもしれない。

この本も、読むまでには時間がかかった。

読まないまま手放してしまうことも考えた。

でも、ある日のある瞬間に読み始め、最初の数時間はまるでハマらないながらも、

とにかく読み進めたある時に、カチっとピースが合ったかのように、

突如、「面白い!」となった珍しい一冊。

 

イスラムの変わった話なのだけど、

変わった登場人物たちの、マイノリティ具合というのか、

置かれている環境みたいなものに自分をみたことによって、物語の意味が一変したのだった。

そこからは夢中。

そして、読み終わるのも惜しいとさえ思うものとなり、

読み終わってからおそらく7、8年経った今もこの小説世界のことがこびりついている。

 

以下はInstagramに投稿したときの文章。

 

この本を説明なしで紹介することは難しいので、帯の言葉を書いてみる。

「禁断のイスラム文学 遂にヴェールを脱ぐ! 特殊能力をもつ青年、抑圧された人妻、反社会的に生きる夫婦...... 現代シリアを舞台に、若者たちの愛とセックスを描く衝撃のデビュー作」

ぼくにとってこの本は、自分がゲイとして生まれたことの意味を考えるひとつのきっかけとなった。命を狙われながらも自分たちの信念を貫き表現活動をする夫婦や、夫婦の作品に光を見いだす青年。そして、このような"禁断"の小説を発表した作者の熱にふれ、ハッとした。ぼくも、勇気をもって自分を表現していきたい! と思った。内容はすっかり忘れてしまったけれど、受けた感銘みたいなものは今も残る。本という物体は、それ自体がメッセージを放っているな、と「月」をわが本棚で見かけるとよく思う。

 


4冊目

 

だって、この表紙ですよ。こんなにかっこいいカバーがありますでしょうか。

白と黒。そうしてタイトルは「white room」。文字の入り方やフォントもすてき!

 

この本のことは、Instagramの投稿をそのまま掲載してみようと思う。以下。

 

この本の前に、同じ被写体と写真家によるananのグラビア写真がある。

1991年、15歳のぼくは全力で自分を殺そうとしていた。

同性に欲情している自分をどうにかして亡き者にしなくてはと毎日苦闘していた。

だけど、あのモッくんのヌードが近所のコンビニで買えてしまうことには抗えず、震えながらananを手にレジへ向かった。

あんなに緊張して興奮したことはそれまでなかった。

この写真集はそれから数年後にどこかのブックオフで買った。駆けるように車に戻り、運転席ですぐに開いた。

 

人生で一番見ている写真集は間違いなくこれです。

いつの時代のぼくも、コンプリートされたこの世界に心が動く。

今回紹介するにあたり検索し、

篠山紀信さんによる一連のヌード写真集は「アクシデントシリーズ」と命名されていたと知り、合点。

少なくともぼくの人生において、この写真集との出会いはアクシデントみたいなものだった。

どうしても覗きたい世界だったし、覗きたい自分を本当は殺したくないんだと何度も気がつかせてくれた。

 

デジタル世界にはいくらでも刺激的なものがあるけど、

鼓動激しくページをめくる経験、文化は継承されてほしいなと思う。

「世の中に衝撃(アクシデント)を! 」という野心、遊び心が自分にも存在することをこの本はたびたび思い出させてくれる。

 

自分がゲイだということを受け入れられず、

怖くて、恐ろしくて、日記にもそのことを書けなかったぼくにとって、

ananを買うことや、男性のヌード写真集を買うことは、

それこそ、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気が必要な行為だった。

逆に言えば、この作品が、ぼくを清水の舞台から飛び降りさせてくれた。

それほどの力、それほどの魅力があった。

ifはないけれど、もしこの作品に出会わなければ、ぼくは死んでいた可能性もあると思う。

一生自分のセクシュアリティという変えようのないものに蓋をして、抑圧をして、

自分に追い詰められて死んでいたかもしれない。

 

心より篠山先生と本木雅弘さんをはじめ、制作された方々に感謝をしています。

 

去年末、長年お世話になりまくっている光文社Tさんより話をいただき、

瀬戸内寂聴さんと宮沢りえさんの対談の構成をすることになった。

京都の寂庵での対談は、その撮影を篠山紀信さんがされた。

待ち時間にTさんが篠山先生に「彼は絵を描いているんですよ」と伝えてくれたことから、

「絵をやってるの? 写真ならもっと簡単なのに。ふふふ」みたいな感じに先生は言い、

実は、ぼくは先生が卒業された写真学校に通っていたんです、

昔に撮られた本木雅弘さんの写真集はぼくの宝物です!

みたいなことを、なんと本人に伝えることができた。

躊躇したけど、こんなチャンスは二度とないかもと勇気をだして告げてみた。

先生は、「いい写真集よね」みたいなことを言っていた。

ぼくは全力で「はい! めちゃくちゃすばらしいです!」と言った。

 

人生って、ほんとにいろんなことが起こる。

ぼくの経験上、ちょっとした勇気をだすことで、さらにすばらしいことが起きるように思う。

勇気の経験は積み重なり、次回はより足を一歩前へだすことが楽になるように思う。

 

もっといえば、「おくりびと」の時に、本木雅弘さんのインタビューをさせてもらったこともある。

そのときのぼくは今よりも恐れがさらに強かったので、

本人はすごく気さくというか、威圧感がなく、

「みなさんはおいくつなんですか?」なんて、あちらからまず尋ねてくれるような人だったけれど、

ぼくは、言えなかった。あなたのヌード写真集に自分を生きる道がひらけました、と。

 

すこし前に、TVで放送された本木雅弘さんのドキュメンタリーを見て、

モッくんのことを、以前よりも知った気持ちになった。

ぼくの中で感じた人物像としては、ものすごい強い自我と一生向き合う求道者みたいな印象。

そうして、ふたたび写真集を見ると、

写真集の魅力は、被写体である彼の外見的な美しさはもちろん、

内面の自信のなさというか、葛藤という影が美しさの深みを増しているのだと感じた。

 

都会的な衣服を脱ぎ捨て、強い日差しの”楽園”で裸になる。

今できるかぎりのいっさいを写真家に、世間にさらす。

そうした抑圧からの解放という”ストーリー”に、

当時も今もぼくは魅せられつづけているのかもしれないと思った。

 

生きている間に一冊でいいから、ぼくもこういう写真集をつくってみたいなー。

もし今の時代にこのような企画で写真集をつくるなら、誰が被写体に適切だろう?

そんなことをここのところ妄想している。

目下は、よく本人を知らないけれど、見た目や雰囲気から、横浜流星くんに一票!

 

あらためて思うけれど、

美しさには、影がつきものなのかもしれない。

その影は、本人をずっと苦しめるかもしれないが、その苦しみこそが光なのだろう。


3冊目

 

この本は、30代の後半くらいに買って、夢中になり、

絶対に好きなはず! と思う友人に、押し付けるようにして貸して何年もたち、

タイトルさえ忘れたけれど、ずっと脳裏のどこかにキープされていた一冊。

 

たしか「四」と「風」が入っていたはず、と検索し、

この度、ブックカバーチャレンジのために再購入してみた。

 

気力がないのか、冒頭から読み直すことはできず、

パっと開いたところから気が済むまで読んでは、また別のところから読むという、

たいへん変則的な読み方をして、まだ全体の10分の1くらいしか再読できていないけど、

やっぱりこの本はおもしろい。

というか、すごく好き。

 

巨大な詩みたいで、

抽象的、ファンタジックな言葉が散りばめられていて、

大人のおとぎ話みたいな感じ。

よくわからないけどわかる。無意識に働きかけているような感覚がある。

現実的なことを抽象的に捉えたい節があるように思う自分には、本当にフィットする。

絶対万人受けはしないだろうけど、好きな人にはたまらないはず。

 

この本に関して、いろいろと書きたいことはあるんだけど、

なにが書きたいのかがわからない。

とにかく7冊の1冊に選びたいほどに、ぼくにとってはすばらしく魅力的な小説だということは間違いない。

 


2冊目

 

うちは、いわゆる平凡な家だったなってよく思う。

実は普通も平凡もないとは思うけど、でも言葉は存在するから、

そのように考えたり、事象をその言葉にあてはめてしまう回路はある。

 

父は会社員で母は専業主婦で、三人兄弟で、

家は大きくも小さくもない二階建てで、

お金持ちでも貧しくもないような暮らしで、

大自然でも都会でもなく、コンビニまでは歩いて10分はかからないくらいのまあまあの田舎に育った。

そこに特殊なものはないように思ってしまう。

ただ、あとから考えて、唯一変わっていたかもなと思うのは、

母がぼくたち兄弟を絵本やら児童書やらの読み聞かせで寝かしつけていたことだ、しかも毎晩。

 

兄とぼくは並んで布団をしき、布団の中で目をつぶったりしながら、

母の朗読を聞いて、もっと読んでとか時にせがんで、そうして眠りについていた期間が、

何年間だったのかはよくわからない。

 

その後、テレビやら音楽やら映画やらいろんな娯楽をおぼえていくが、

気がついたら手にしていた的原初のエンタメはまちがいなく絵本の世界。絵本的世界。

 

今でも絵本の内容というよりは、

たとえば聞きながらひたっていた想像世界の空気みたいなものをふいに思い出すことがある。

というか、なにが絵本のことで、なにが実際のことだったかはもはや区別ができない。

まざりあって、ひとつの記憶みたいになってしまっている。

 

大人になるにつれ絵本のことなどどうでもよくなっていったけれど、

20代の後半になり、自分の中には今でもあの頃の自分がいる、あの頃みたいな感性が存在していると気がつき、

いくつかの絵本を買いなおした(正確には初めて買った)。

 

本を7冊紹介するにあたり、

良くも悪くも自分の感性の骨格みたいなものとなってしまっている絵本世界は外せないと思った。

そうして選んだのが『おおきな きが ほしい』。

 

この本にでてくる、主人公の男の子の理想の家? 部屋? アトリエ? は、

そのままぼくの理想になっている。

子どもの頃からその憧れははじまり、母に「この木を植えてほしい」とたしかお願いをした。

庭にあった白樺の木が、いつか大きくなってそこにこうした小屋をつくる想像をよくした。

 

いま、わが家は大きな木の下にある。

引き寄せてしまったみたい。


ブックカバーチャレンジ

 

最近流行っているバトン。ぼくのところにもいくつか回ってきたけれど、

回してくれた気持ちに応えたいし、思い出してくれてありがたいし、

人に回すのって少なからず勇気みたいなものがいるよな、と思うけれど、

なかなか気力がわかず、できていない。

ただ、本の紹介をするという「ブックカバーチャレンジ」というものは、ぜひやりたいと思った。

 

こういうことでもなければ、本の紹介なんてなかなかする機会がないし(勝手にすればいいだけだけど)、

でも、本というものが、やはりとても好きだし、

誰かと共有、わかちあいできたら嬉しいな、とも思うので、

先日より投稿を始めた。

 

1冊目はこの本。本といえばぼくの中では、まず「言葉」がセットで浮かぶ。

写真集や画集みたいに言葉が一切ないものも「本」だけれど、

ぼくの中では、やはり言葉がほしい。

左脳的というのか、言語で理解をしたいという思いが強いタイプなのだと自己分析。

 

と、考えると、本の紹介の最初は、ことばの紹介みたいなものの本がいいな、と思った。

この『にほんご』は実家の本棚からもってきて自分のものとしてしまった。

この真面目そうな表紙からは想像できないくらい、中は自由。

 

言葉というある意味不自由な束縛の世界にわたしたちはありますが、

でも、その枠の中では自由です。

不自由だから自由です。

不自由の自由をどこまでたのしめるかがこの世界なんですよ。

 

この本の作者として名を連ねる4人の大人は、

そんなメッセージを本に込めたんじゃなかろうか、と、

おそらく当時の作者たちくらいの年齢になった今日のぼくは思う。


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