いつかのアタシ問答

 この間の会合や、すーさんとの会話で感じた違和感のおおもとにあるのは、「世の中」という実体のないものを「自分」という実体のある(?)ものよりも優先させている、ということだ、と、ミッチーに話しながら気がついた。自分の世界とは別に「世の中」というものが存在しているなんて実は嘘なのではないか、と思う。「世の中」の姿なんてどこにもないし、どこにいってもたしかめようがない。けれど「世の中」はマスコミや人の噂話などを通じて、私たちにあれこれと言ってくる。勝ち組、負け組、婚活、不況、韓流などなどなど。それが自分に必要な考え方であるか、自分に力をくれる言葉か、が、自分の人生にとっては大事なことであり、「世の中」がそうであるから私もこうしなくては、こういうものなのだ、と思うのは何かが決定的におかしい、と思う。今、自殺が大ブームです! なんてテレビやネットで後押しされたら死にたくもないのに死ぬのだろうか。ぼくはだから、ふーん、でいい。へー、そうなんだ。で、いい。世の中で何が流行っているかよりも自分のなかで何が大事かを注意深く眺めていたい。そうでなければ誰の人生なのか。この私での人生はたったの一度きり。そして、いつその幕がどのように下りるかを知ることなく生きるのが人生。2分後に死ぬかもしれない。1年後に死ぬかもしれない。それなのに、ブームだからといってしたくない結婚などする必要がどこにあるのだろうか。老後の心配をどうしてできるのだろう。そもそも老後とはいつからのこと?

いつかの自問自答


質問。
ぼくはこの先どんな人生を歩みたいのでしょうか。

ふと、コンビニへファックスをしに向かう道々、
その冬の空と、町の音と、空気の冷たさと、平凡な一軒家の瓦屋根をみて、
子供の頃の自分とつながった。
子供のぼくと出会う時間は心地よい。
自由を思い出す。
毎日になにひとつのプレッシャーもなかった時代。

ぼくは、あれ? って思った。
もっと自由な、
自分の毎日を愛せるような人生がこの世界にはあるんじゃないか? って思った。
なににも脅えない毎日が。

そんな世界をつくるのは自分しかいないということはわかる。
ぼくは、ぼくのために毎日なにをすればいいんだろう。
まずは今日、いや今なにを。



 

いつかの日記のようななにかその2

きのう、皿洗いをしながらうかんだこと。

神様が、無からわたしたち人間をつくったのだとして。
出発点は神様なわけだ。

神様が分裂して、神様の延長線上のものとして、一部としてわたしたちがある。
そうして無からなにかが一つ生まれ、
それが分裂して広がっていき、人間になるのだとしたら、
人間は神様ということだ。
違うけれど違わない、いっしょ。

生まれて、神様であることを大人は教えてくれず、
社会や常識や教育などで、私たちは人間なのだと教えられる。
そうするとできることに限りが生まれる。
人間という枠が、神様との境界線が生まれる。
だけど、やっぱり人間は神様なわけだから、本当の、軸の部分は変わらず神のまま。

知識を得て、身体に垢がつくようにいろんな偏見をこびりつかせて、
個人というさらに小さい枠のなかに入っていく。
できることがどんどん狭まっていく。

でも、人生はつづく。
生きても生きても死なない。
死ぬときまでは生き続けなくてはいけない。

なんのため? お金を得ること? いえ、違う。

お金は人間がつくったものだ。
そして形のあるもの。

ある限られた、
その目に見える「お金」という約束事が通じない世界だって地球には存在する。
そんな一部のお約束事のようなそれのために人生があるわけはない。
もっと普遍的。

人は、ぼくは、もう一度神様になるために、
神様に戻るために生きているのではなかろうか。

神とはいったい何なのだろう? 
神様はきっと、圧倒的に自由なのだと思う。

この地球が、人間の手により日々大変なことになっているといわれるけれど、
人間からその自由を奪うことはしない。
自由。

自由を与えられるのは、愛しているからだ。
愛は相手に自由を与える。
ありのままの、そのままの、あなたでいることを許す。
人が神様になるとき、その人は圧倒的に自由で、圧倒的な愛のかたまりなのだと思う。思った。

だからまず、圧倒的に自分を愛そう。
愛し尽くして、愛でいっぱいになって、愛そのものになったとき、
愛のかたまりは、愛を放射して世界をあかるく照らす。


 

3年前くらいの日記のようなもの

小松さんは、大阪から4時間半くらいかけて車でやってきていたのだけど、出発は朝の7時だったこの日の帰りに、帰り道にある徳島のたこを食べさせる居酒屋に寄ろうと計画をしているとのことだった。それから、スパミシュランという全国各地の温泉を個人的に採点している人のホームページにのっていた徳島のよさそうな銭湯にも寄っていこうとしていた。驚き。朝早くからやってきて、撮影をして、苔筵まで往復3時間くらい運転をし、というか1日ずっと運転をし続けた帰り道に温泉。眠くなりそう。帰るの面倒になりそう。ぼくなど、そそと飛行機で帰宅しようとしていたのになんというフットワークの軽さ。でも、それはとても小松さんらしい帰り道だと思った。なんというかエネルギーにあふれているのだ、この人は。そして、たのしそう。「嫌なことをひとつもしていないから疲れてなんていませんよ。帰り道のそのたこの店は、びっくりするくらいたこが美味しくて、もう一度食べておきたいな、って。ずっと運転をしているけど、合間に休憩があるでしょ? そこで美味しいものを食べたりとかしていると嬉しいし、元気になる。疲れがなくなる。銭湯で休んで疲れをとって、たこを食べて疲れをとって、だから全然疲れません。いざとなったら駐車して後部座席で寝ればいいだけですもん。そう思っているから眠くならないのかもしれないですね」。なんか、哲学。人生哲学だ。たのしいからする。たのしめなくなる前に休憩をいれる。それでも疲れてしまったら休む。単純。本当のことはきっと、うんと単純なのだと思う。神様がなにか大事なことを教えるときに、長々と話すとは思えない。

けっきょく買ったカメラのことなど



 まよっている、迷っている朝。だけど別にかなしい迷いではない。たのしい迷い。どうしよう、買おうか、買うまいか。カメラを買おうとしている、フィルムのカメラを。それはいつか気になって、そのときも買おうかと思いやめて、また突如再燃してまた迷っている私。なんだろう、なにを気にしているのだろう。お金か。お金もある。だけどお金を払うというか使うということよりも、お金を使い購入したそれを使わないかもしれない、使わなくなるかもしれないと思うと尻込み。そう、無駄にしてしまうかもしれず怖い。それが怖いのだ。未来の恐怖。未知の恐れ。でも、そんなことはわからないよなあ。わかりっこない。だって未来のぼくは今のぼくではないのだもの。別人。今のぼくは欲しくて、写真をフィルムでとってプリントして、紙としてそれをもってみたくて、それがなんだかとても楽しそうな魅力的なことに思える。きっかけは、あれだ。きのう、ブログの文章をかき、写真を探して、「ネガ」とかかれたフォルダの画像がとてもよかったのだ。なんかデジカメのそれとは違うのだ。で、夕べ、寝しなにそのことを思い出し検索。そして今朝もまた検索し、きのうよりもだいぶ意思が固まりつつあり、もうクリックして、3万円強のそれを買おうかと思ったけれどやめた。まだ買っていない。無駄遣いをしたくない。でも何が無駄かなどわからない。明日のことはわからない。グルグルグル。輪廻。

私アーカイブより



 5時に起きた。ケータイをみたら5時1分だった。おはよう。そしてふと、高尾山に登りご来光を見るというアイディアが浮かんだがやりたくなかった。ので、そうはせず今、ここに。ただいま5時23分。たまっているテープおこしをここらでやっておきたいと思う。できるときにできることをする。このごろそういう発想をするのはここのところの仕事がたてこむ感じに慣れてきたということか。ぼくはこの先もそれを望んでいるということか? ぼくはなにを望んでいるのだろうか。またそんなことを考える。こうしてときどき立ち止まる。立ち止まってしまう。ずっとずっと脇目もふらずに歩くことができない。効率が悪い男。仕方がない、そうして出来ているのだもの。花粉は、一度クスリを飲み、ガッツリだるくなってからなんだか調子がよい。きのうなどほとんど鼻をかまなかった。昨日は仕事。取材。インタビュー。10分という風にいわれていたが、なんだか予定よりも早くことが進んだのか20分話を聞けることになり、それはインタビュー中に「もう10分いいですよ」って感じに伝えられ、ちょっと焦った。ぜんぜん質問を用意していなかった。ふつうの、ふだんの会話ならそんなことに困りはしないのだけど、取材となると慌てるのはどうしてだろう。余計なことを考えているのだ。きっと、適切か不適切かとかそんなこと。だからリミッターのような役割をそれが果たし、聞きたいことが浮かんでこない。でも、なんだか楽しかった。きのうのMさんは感じがよかった。フレンドリーな空気。とはいえやっぱりどこかが緊張した。終わってホッとした。その繰り返し。緊張と緩和の仕事。帰りに、なんだかすこし開放的な気分になり、まっすぐに帰らず新宿ルミネをブラブラ。いや、ルミネじゃなかった、フラッグスだ。夕べ、間違えてミッチーに伝えてしまった。あそこをルミネと思うなんてびっくり。ずいぶんと疎遠になったものだ。変わったのだな、ぼくの世界は。アンドエーというお店で、もしかしたら初めて洋服を買った。お店の男の子の感じが良かった。いや、だいたいああしたデパート系のなかにある洋服屋の店員さんは感じが良いものだ。別の店で、さっきまで自分ににこやかに話しかけてきていた店員が、ぼくがそのエリアを移動するや次にそこに踏み込んだ男子に同じように笑顔を想像させる声で話しかけていることに大げさにいえば嫉妬している自分に気がついた。発見。ぼくは営業トークという概念をわかっていない、信じていないのかもしれない。誰にでも仕事だから笑顔で話しかける、ということをわかっていないのだ。こういう人、ぼくのような人は間違いなくホストクラブにハマるのでしょうね。すぐに「恋だ」とか「向こうも好きだ」とか思ってしまうに違いない。とか考えると、恋愛において、騙されたことがない(おそらく)人生でラッキーだ。もしも一度でも「好きだよ」と言われていながら、それを信じていたらまったくの嘘だった、好きでもなんでもなくなにかの目的のための「好き」だったことがあったら、その後、そうしたことを信じることがなかなかできなかったかもしれない。恋愛ができなくなっていたかもしれない。幸い自分にはそういうことがなかった。と、書いていて、いやいや不信感をもったことがあった、と思い出す。あの恋愛は、ぼくの初めての恋人とのあの恋は、不信感との戦いだった。気がつくとガッツリ浮気をされていて、開き直られ、弱った。ぼくの思っていた恋愛と、相思相愛と違いすぎた。自分が分裂、引き裂かれるような感覚というのはもしかしたら人生で初めてだったかもしれない。一緒にいたい、顔もみたくない。好き、嫌い。愛憎というような感情。それがグルグル。どうして浮気なんかしたんだろう、それも発覚するくらいの脇の甘さで。と、何度も思った気がする。ずっと好きでいたかったのに、と。あれは挫折のような経験だったかもしれない。その後、ああした人、遊んでいそうな人、浮気ができそうな人というのはぼくの恋愛対象から外れたような気がする。いや、わからない。でも、少なくとも警戒心は生まれた。今は落ちつきすぎているくらい落ちついて、そうしたことに悩んだりしていない。ただ、それが良いことなのかといったらわからない。というか、どちらの状態も実は良くも悪くもない。異なる経験、というだけ。そう思う。人生にゴールなんかないのだ。過程こそが人生で、今がすべて。そう思う。そう思う朝。


いつかの火曜の朝に



 きょうは火曜日。朝、9時23分である。快晴。さっそく洗濯機をまわし、ゴミを出し、新聞に目をとおし、ハーブティーを飲み、今。今日も目のまわりがなんだかベタベタする。花粉症だろうか。やはり。きのうは長い一日だった。4時半に起き、仕事へ出かけるミッチーと時間を過ごしまた少し寝て、仕事へ。松竹の稽古場で歌舞伎の稽古の取材。広くはないそこの隅っこで正座をしてみた。だいたい3時間くらい。あたりまえのことだろうが、大勢の人が情熱をもってひとつの作品をつくっているのだなあ、と思う。思った。そこにあるのは、よりよいものにしようという意志。だけど、その熱に、温度差はあるのかもしれない。わからないけれど。とにかく勘九郎さんのエネルギーはすごかった。とても生き生きとしていて、場を盛り上げる。座頭というのはそういうものなのかもしれない。膨大なセリフのほとんどがもう頭なのか身体なのかに入っている様子。長いセリフもすらすらと噛むこともなく言う。すごいなあ、と思った。稽古の終盤、子役が何人か登場。まだ幼稚園か、小学1年生くらいの男の子が、「父の敵〜!」とか言わされて、芝居に参加していた。言っているというより言わされている感じ。彼らはそうしていつか歌舞伎役者になるのだろうか。そういう人生。レールがもう敷かれている。そのようにして勘九郎さんも七之助さんも幼き頃からずっとやってきたのだ。長い長い年月を経て、そうした人に、身体に心になったのだろう、演じるということが息を吸うのと同じくらい必要で、あたりまえの人生。そのようにしてなにかをあきらめ、なにかを手にし、彼らのような歌舞伎役者や歌舞伎をつくる人々がいて今日も歌舞伎が存在している。なんだかありがたいな、と思った。この、若いお弟子さん、若くもなさそうなお弟子さん、禿げ上がった頭の小太りの人、どこにでもいそうなこうした人たちがいつかの時に「歌舞伎に携わる」と決め、ここにいるのだろう。あたりまえにあるのではない、と勘九郎さんは取材のときに話をしてくれたが、本当にそうなのだろう。みんなが、その気持ちで、志で、人生をかけて存続させているものなのだ。ぼくは、それを隅っこでみている。やる人がいたら観る人も必要。ぼくはその観る人を増やす手伝いをする人なのだ。ぼくの今している記者という仕事はそういう仕事だ。あるものをみんなの代表の一人として体験し、拝見し、経験し、お会いし、それをみんなに伝える仕事。どんなものであれ、それをつくる人たちのエネルギーが注がれている。そのことを大切に、記事を書きたい。

 

 夕べ、ひさびさ編集部へ行き、送本作業などをこなす。ミッチーが夜9時頃に仕事が終わる予定だったので、8時前には編集部をでて新宿をブラブラ。たくさん惹かれるものがあったが、どれも買うというところまではいかなかった。ある意味、夢見がちではなくなったのかもしれない。これがあったらいいだろう、と瞬間思うけれど、その夢の現実をすでに知っている。これまでの経験で、これくらいの熱だとこんな感じになる、とわかっている。でも、それ、ほんとうにわかっているのとは違う。予測だ。あくまでも予測なのだからトライしてみようか。ぜんぶ? 気になったものをぜんぶ買うの? うむ。そうした問答を心で繰り返し、けっきょく買わなかったのが昨日。ただ、最後に入ったディーン&デルーカで初めて自分の買い物をした。人のためや仕事のためには買ったことがあると思うが、初めてのわたしの買い物は、玄米麹シロップみたいなのとハーブティー。このところ、ほんとにそういうものに関心がいく。家でたのしめるからだによさそうな飲食物。今日、二台目の炊飯器が届く予定。これで、毎日酵素玄米生活がはじまるはず。わくわく。たのしみ。けっきょくミッチーは11時近くまで仕事がかかり、新宿の街には雨までふりだした。そして寒い。なんだか疲れてしまったけれど、車に乗り込んだら安心がやってきてゆるんだ。


いつかの朝に



 7時12分。朝です。夕べはおそらく3時近くに寝たのだけど起きた。よっぽど鍼の先生の「7時に朝食をとって」という言葉が残っているのだろうか。魔術。そういう言葉によって支配というか、スイッチのようなものが入る仕組みが人にはあるようだ。おそらく。寝しなに思ったのは「絵が下手」。これは誰かにそう言われたのか美術の、図工の成績が悪かったからそう思い込んだのかわからないが深くそう思っている。それは事実だ。とすら思っている。人に話すときも「絵が苦手」という表現ではなく「絵が下手」と言っている気がする。苦手意識はもちろん。3分経過。起きたものの何をしよう。そしてすぐに、まっすぐにパソコンをひらく私。ある意味中毒。もしもこの世界に、今の暮らしにパソコンがなくなったとしたらぼくはどうなるのだろう。この作文したい衝動は紙にペンをたずさえ向かうのだろうか。わからない。この間、Kちゃんがすごい早さでパソコンのキーボードを打つのをみて、この、作業というか工程というか、このカタカタこそに中毒しているのではないかと思った。快感。実はそういうことってある気がする。だからカタカタという音は必要なのだ。やってる感を演出する音。猫たちが鳴いている。なにを? 彼らはこの朝に何を鳴くのか。どんなおしゃべりをしているのだろう。ニャーというのではなく、ヌアー。ヌンア。って感じ。言葉にすると不気味。うまく言葉にのらない。人間のだす、日本人の発する日本の言葉じゃないのだから日本の言葉で表せるものではないのかもしれないそう簡単に。


 今日は金曜日。最新の欲としては、なみちゃんが発していた「来週エアマックを買う」により、今さっき、急にエアマックが欲しい気持ちに。でも、ぜんぜん必要ない。だって、このパソコン、彼がいるのだから。欲しいもの。ハーブのエキス。というか、お湯をおいしく飲めるもの。「おいしい」には身体にいいも含まれる。ただただおいしいのではたぶん罪悪感のようなものが生まれてしまう気がするので「からだにいい」。風呂上がり、ミッチーはおいしそうなものをつくり、飲んでいた。冷やした炭酸にジンジャーのシロップを入れ絞ったレモンをいれる。シュワシュワと音までたてて、なんておいしそう。でも、ぼくは只今治療中。この胃には、冷たいものはあまりよくないとのこと。あ。でも。思い出した。すばらしいことを。これは一生のことではないのだった。先生は、今、というか、胃がよくなるまでは、と言っていた。そう、期間限定なのだ。とはいえ、胃腸が弱い人に冷たいものは厳禁らしい。そうして禁じられて、ぼくは「冷たいものが好き」と気づく。氷をいれてまで冷やしたい心は今はないのでその実感が乏しかったが、風呂上がりに冷たいものを飲みたい、と思う自分をしる。シュワシュワしたそれはあまりに美味しそうで、思わず少しもらう。どんどんもらう。グラスの半分近く飲んでいた。そこで反省をし、打開策としてひらめいたのがあたたかくて美味しいものをいつでも飲めるようにしよう。それがハーブコーディアルという生活の木で売られているハーブをつけたシロップのようなもの。去年、差し入れとしていったい何本買っただろう? 自分のためにはそれを知った初期、出あいたてに何度か買ったのみだ。そのときもおいしく飲んでいたのに続かなかったのはひとえに金銭的なことだと思う。ふと、「高い」と思った瞬間があったのだろう。それはそのときの自分が自分に与えるには贅沢に思えたのだろう。でも、それはそのときの思いこみ。所持金とのバランス。今は、数千円を飲み物に払う余地あり。さっそく本日、駅前に買いに行こうかと思うも、ネットでしょうしょう安く手に入ることをしりまた迷う。迷うとは選択肢があるということだ。そろそろ朝食をとろうか。7時33分。先生に教わったぼくの朝食を。

感想



 ふと、感動したのでここに書いておこう。書きながら整理とか、なにかあたらしく思うことなどあるかもしれないし、と。さっき、二人で寿司屋、「スシロー」へ。1時間近く本屋とビデオ屋で待ち、入る。ふと、思う。うしろのテーブルの中学生だろうかという女の子があまりにもおしゃべりで、なんだかその会話が可愛くて、ミッチーと「よくしゃべる子だねえ」なんてその子について言いあった後に、思った。あの中学生くらいの女子とぼくでは見えているもの、思うこと、世界が全然違うんだろうなー、って。その子がとてもいきいきと、かわいいクイズなんかを友だちだかお母さんだかにだしたりしていたからぼくとの違いをくっきりと感じてそんなことを思ったのだけど、でも、それはその子とぼくに限ったことではない。みんなそうだ。みんな違う。しっていたことだけど、なんだか、びっくりした。みーんなオリジナルなんだなあ。誰ひとりとして同じ人生を歩むものはないし、同じ景色を同じように見ることもなければ、このお寿司だって同じものは二つとないし、感じ方だって千差万別。はてしない。はてしないです、この世界。なんてすごいことだろう。ひとりひとり、みんな違うだなんて。ぼくのように、こんな風に世界をみている人もたった一人なんだなー、と思ったら、なんだかちょっと笑えてきた。このいちいちぶつぶつ考えていたり、妙なことに怒ったり、悲しくなったり、感動したり。この発想も、色づかいも、服の趣味も、誰にも本当はわからないんだな。大切にしよう。ちゃんと守っていこう。誰ともわかりあえなくっても間違いではない。間違いなどない。それがその人の世界。そう考えると、おきるいろいろはまさに自分がおこしているともいえる。自分がどうみるか。自分がどうしてきたか、なにを選んだか。それが、今、という瞬間をつくる。でも、本当は、過去が脈々と今につづいているのではなく、一瞬一瞬だけがあるのかもしれない。瞬間に変わることができる。なんだか、そう思ったらとてもあかるい気持ちになって、回ってきた、不思議なバジルチーズ海老みたいなお皿をとった。はじめてのそれ。ぼくの新しい選択。


いつかの冬の記録

 9時41分。ひんやり。さっきヒーターに電源を入れたら、2度という表示がでた。寒い朝。だけど、トイレの水は流れた。凍っていなかったようだ。二度とかいて「ニド」というカフェのことを思い出した。その店に少しビビりながら入った日のこと、そこで過ごした時間、お店の人たちがお洒落に、眩しくみえたこと。それも、この人生にあった時間なのだ、と思うと不思議な気持ち。まるで他人事のように、今の自分の日常にはまったくない世界というか時間というか感覚というか。実際、そのお店ももうないのかもしれない。そうやって、すべては過ぎていく。ずっと変わらないものなどないのだろう。友だちという言葉でまっさきに想像する人の顔も毎年変わっていく。仲が良かったあの人とはもう数年あっていない、という人がたくさんいる。きっと、どこかで、あるとき、道が変わったのだろう。この先また交わることがあるのかもしれないし、もう交わらないのかもしれない。それでもお互い、生きていく。ただ、「元気?」と電話をして、「会いたい」といって、「いつなら会える?」と聞いて会おうとすればいいだけのことかもしれない。でも、そうしないのは今はその必要がないからだと思う。そして、向こうにとっても必要がないのだ。去年は、本当に人々と疎遠の1年だった。主に、くーこ。それから後半に青柳。毎日にミッチー、ときどきエバちゃんとメイちゃん。仕事の現場でナガちゃんに加冶屋さん、時々、永島さんに竹島さん。ほとんどそれがすべて、と言えるくらいに人との接触が少ない年だった。ミッチーと猫とここに、家にこもり、ぶつぶつ考えたり、書いたり、本をよんだりして過ごした。そして相変わらず寝てばかり。今日ももう10時になるさきほどに起きだし、夜は12時過ぎには寝ていた。冬眠。冬は寒くて早く起きることに積極的になれない。冬は寒くて遅くまで起きていることに積極的になれない。もぐるように布団に入り、むさぼるように寝ている。冬眠、という言葉があってよかった。

  


            

 
 
 世界というのは、ある瞬間に大きく変わることもあるし、季節の移ろいのようになだらかに日々、変わっている。あんなに好きだった人と夢中で死ぬ気で恋をしたぼくも永遠ではなく、ある日に別れを告げることになり、いつしか忘れてしまった。それから、また別の人を好きになり、離れ、年を重ねていく。ずっといっしょにいたいとか、ずっと仲良くしていようとか、ずっと変わらぬ友情を、とか、そういう言葉を若いときには言いがちだけれど、変わらないというのは果てしなくつまらないことかもしれない。変わるから、変わってしまうからあきずに今日も生きていられる。最高! と思った瞬間は何度もあったし、それは永遠につづいて欲しい瞬間でもあるのだけど、でも、終わってよかった。と今は思う。終わることでまた別の「最高!」と思う瞬間が訪れるし、それは、以前のそれとはまったく別の種類の幸福の時だったりするから。今は、ただ、ここに向きあい、ピッタリ10時で、猫のほとんどは寝ていて、ミッチーも寝ていて、新聞はまだポストにささったままで、出していない葉書が2枚あって、コーヒーが昨日の残りが1杯分くらいあり、手は少しかじかんでいて、外は昨日の風が嘘みたいに静かで、鳥がないている。最高の朝。こんな時間はニドカフェに喜んでいた時代には感じることができなかっただろう。想像すらしなかった。求めていなかった。あの日求めていたのは、原宿であたたかくて洒落た空間で素敵なグラスに入ったアイスカフェオーレを友だちと飲みながら、その日に巡った洋服屋さんのことや手にした服を見せあい、買わなかった服について思い出し、新しい服をきて行く場所のことを話し合うことだった。今、思い出してもたのしい。うつくしい時間。でも、ぼくはその場所を後にし、今に至る。それでよかった。そうしたかった。



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