スピリチュアル・レッスンを終えて

 

短くて熱い、濃厚な2月が終わった。

ちょうどこのひと月、友だちに誘われ「スピリチュアル・レッスン」に取り組んでいた。

どんな28日間だったか、短い日記を読み返し、振り返りたいと思えない。

まだ、そうしたい気持ちにならないくらい激しかった。

ただ、そのほとんどは内側で起こっていた。

もしも、外からぼくを観察していた人がいるならば、

うんと地味で静かな月だったね、と思うだろう。

でも、そういうこと。

すべては内側で起こっている。

自分が捉えたこと、わきあがる思考、感情によって”現実”はつくられている。

 

ふー、終わった。と思い、すこし清々しい気分となり、軽い気持ちで本をひらいた。

「光の書」というオラクルブック。

今のぼくにメッセージをください、と念じ

目をつぶって、記号がかかれた石を2つひいた。

 

メッセージは「内なる家」というもので、内観せよ、ということだった。

何世紀も放置していた荒れたその庭を耕せ、と。

 

言葉の意味はわかったけれど、意味がよくわからなかった。

そこでさらなるヒントを求めて、思いつきでネットでタロットをひいた。

「比較」と出た。

深く深くうなずいてしまった。

 

ぼくの心をざわざわさせる大元にある働きは、まさにそれだった。

ぼくは、ほとんど無意識に比べている。

自分と誰かを比べまくって、心を沈ませている。

隣の芝生は青いというように、他人のことは良く見える。

あたりまえだ。

だって、ぼくが見ている誰かの見えている部分は、ほんの一部分にすぎないのだもの。

その人は歯を食いしばり痛みに耐えながら楽しそうに笑っているのかもしれない。

だけどそれを「楽しそう」と見て、

楽しそうに笑えるほどに心身ともによい状態にあるのだなあ、いいな。と捉えてしまう。

 

そして、これは自分の特徴、個性なのかもと思うこととして、

人のよいところにフォーカスしがち、というのがある。

ぼくからしてみると、接する人たちが、みんな輝いてみえる。

すてきな部分やきらめく才能に目がいってしまう。

それは、ある意味では長所。ある意味では短所。

 

感知したその人の輝きを本人にうまく伝えることができたら、

伝えたぼくも伝えられた相手もうれしい、ということはある。

一方、ぼくが「うらやましい」という意識でその人の輝きをみていると、

相手はどんな心地なのかはひとまず、こちらは、自分を不甲斐なく思ったりする。

まさに諸刃の剣。

 

ぼくの比較癖は果たしてどこからくるのだろう?

それは、自己否定からかもと思う。

 

自分を「このままでは不十分」とみなすことは、

何かが欠けている、何かを補わなくては、というモードにさせる。

そうして周囲を見渡し”足りないもの”を探し、検証しだす。

それが「比較」ということの始まりなのではないかと思う。

 

比較癖がなかったら、競争という意識もなくなるかもしれない。

得体の知れない焦りや不安も小さくなっていくかもしれない。

 

では、どうしたら比較癖をアンインストールできるのだろうか?

 

それにはまず「そのような癖をもつ」と、「癖認定」することかもしれない。

「それは癖」という意識をもてば、”自分”というアイデンティティのようなものから、

それを切り離すことができる。

癖はあくまでも癖で、私自身ではない、と。

 

そして、自動的に反芻する”癖”を脱するには、意識的に真逆の癖をつけることだろう。

「自分は自分。人は人。人同士は比べられない」などと、繰り返し、

思い出したら何度でも自分に言い聞かせること。

 

ぼくのこのブログなど、まさにそうだ。

何年も何年も、ほとんど同じようなことをずっと書いている。

長く読んでくれている人から、以前そのような指摘をされたことがそういえばあった。

「前も同じようなことを書いてたよ?」

 

今回で3回目となった「スピリチュアル・レッスン」。

何がどう自分に作用したのかはよくわからないけれど、

華麗にスルーしてきた「比較からの競争の癖」が意識に浮上してきたことでひとまずよしとしよう。

 

 

おわりははじまり。


day15

ここ数日はこれを書いていなかった。
いろいろあったのに、あったから書いていなかった。
今日のレッスンに取り掛かる前に書いておこう。

 

 

まずはさっき断った。Mくんの家での宴を断った。
行きたい気持ちも強くあるのだけど、体は疲れている。
早く休んでよく寝れば回復するかと思ったけど、いっそ体は休みたがっているのがわかる。
だけど、それでも迷って迷って、アストロダイスまで振って、
それでも迷って、結局断りの連絡をさっきした。

 

Mくんなど、スーパーフラットな人で、
とっても付き合いやすいその人の誘いなのに、
ぼくは断ることをとても恐れた。
断ったものの返信がまだないことが少しまだ怖い。

あ、結果今日のレッスンのことを書き出している。
過ぎた日のことはもういいか。出てきたら出てきだし、出てこないならもういい。

 

怖いのだ。ぼくは人に対してNoを伝えることがとても怖い。
断ったら二度と誘われなさそうで怖いという思いがある。ずっとある。
人の誘いを断ることが相当苦手で、ハードルが高い。
Yさんが双子座の人は、さらっと断れる。それは才能。というようなことを言っていたが、
自分に関しては、さらっと断ることが得意ではない。
対外的にはそう見えることもあるかもしれないけれど、
内情は、いつも葛藤に葛藤を重ね、
できるだけYesしたい、Yesしなくては、と葛藤し、
それでも気持ちがYesとならないときだけ、
毎度緊張しながらNoをしている。
あきらかに予定が他にあるときは断れるけど、

予定は空いているのにNoするなんてたやすくない。

 

今回のような場だと、そこに参加しなかったことで
何かしらのチャンスを逃しそうで怖いというのもある。
そこでとてもいい話があるとか、すてきな人と知り合えるとか、
そういう”未来”を逃しそうで怖い。
でも、その”未来”とは何だろうか?

 

ぼくは他力本願なのだな。
誰かがぼくを見つけてくれる。誰かがぼくに与えてくれる。
そういう思いがあるのだろう。
自力を信じていないのかもしれない。
それから宇宙の流れとか、
ライトタイムを信じきれていないのかもしれない。
もし、本当に「ライトタイム、ライトプレイス」を信じていたら、
出会うべき人にはどうやったて会えるわけだし、
必要なメッセージや機会は逃しようがない。
それを信じていないから「自分がNoしたことで千載一遇の機会を逃すかも」と思って返事を躊躇する。

でも、自分の本心にそむいてYesしたことで手に入れたものというのは、
よく考えたら、自分とズレた場所での出会いということになる。
それが一見すごく素晴らしいものと思えても、
もとをたどると、自分に背いているところから始まっている。
だとしたら、それって本当に素晴らしいものかはわからない。

 

なぜ自分を信じないのか。
これまでの人生があったから今がある。
今があるということは、今生きている、今日命があるということ。
生きていることが正しいとは思わない。
死が間違いともダメなこととも思わない。
だから「今日生きていること」が絶対の善だとは思わない。
だけど、生きていないと、今のこの日、目の前のすべて、悩み葛藤する自分も存在しない。
そう考えると、悩めることも生きているからこそなわけで、
悩むという経験も、生きているからこそできるのだ。

 

「生きていること」に良し悪しはないにしても、とにかく生きていることは事実。
そして、今日も命があるということは、これまでのすべてがそのようであったからこそ成立する。

 

ifの話は無意味かもだけれど、
もしも昨日の行動の何かが少しでも違ったら、今日がなかったかもしれない。
朝、目を覚ますことがなかったかもしれない。死んでいた可能性もある。
だとしたら、この世で経験できるすべてのこと以上に、
この世の経験の大元というか、器みたいなものが「生きている」ということなわけだから、
生きていることが、すべての経験よりも、尊いこととなる。
今日生きている、ということ以上に貴重な経験はないということになる。
そう考えると、あらゆる選択、そのすべては「正解」だったのだ。
だから生きているのだ。

 

ぜんぶ「正解」で、今日も命がつづいているからこそ、悩むことができる。
ある意味ぼくは、今日までの43年と何百日か、一度も間違うことがなかったのだ。
毎分、毎秒、毎瞬、1mmの狂いもなく「正解」を出し続けてきた。
だから生きている。

そう思うと、自分って本当にすごい。
ぜんぶがぜんぶ正しかったのだ。
人に対してしてしまった失礼も、心の中で抱いた激しい攻撃性も、実際に放った言葉、行動、
穴があったら入りたいくらい恥ずかしいことも、あとから何度も何度も悔やんだことも、
そのすべては、それで正しかったのだ。

 

生きていることが正しいとは思わない。
だけど、生きていなくては正しいやら間違っているやら
そういう逡巡すらできない。
間違った選択なんてきっとないのだ。
そう思ってみる。
そう思ってみたら、怖いことが少しは減るかもしれない。

断りたい自分がどこかにいるのだとしたら、
その小さい声こそ大切にしてみよう。
大きい声、自分の理性や恐れから生まれた声に従うことばかりではなく、
かすかだけど、嫌だとか、しんどいとか、動けない動きたくない、
そういうワガママな自分の声に耳を傾けよう。
かき消えそうなその声を聞き届け、尊重しよう。

 


day10

昨日は獅子座の満月。

先週の金曜日にハワイのことをやり始めた日は最高潮に気分がよかったが、

昨日からまた雰囲気が変わったよう。少しどんよりしている。

なんだか体が疲れていて、今日はなかなか起きられなかった。

ミッチーも今日は「オフ」と言い、まだ寝ている。12時40分。

 

 

昨日はレッスンについてほとんどエネルギーを割かなかった。

そういう日もある。前日にお酒をたくさん飲んだからだろうか。そうかもしれない。

 

今日のレッスンについて、書いておく。

今日は自分のエネルギーを下げるもの上げるものについて。

このレッスンは、あまり乗り気がしない。なんというか、自分にとってそう発見がないような気がしている。

でも、すこしだけ向き合ってみよう。

 

下げるものについて、先ほど思い浮かんだのは高圧的な人、そうした場が苦手。

男性的な人に対して、ぼくは比較をし始め、コンプレックスを感じてしまう傾向にある。

たとえば政治や経済、10ハウス的なものに価値を強く抱いている人との時間は気詰まりする。

気詰まり、とはよくいった言葉だ。気が詰まる。気が滞るのだな。

なんだか自分が自分のままいることができない感覚となる。

相手から批判、非難されたという思い込み、記憶がうずくのだろう。

それは兄に対しての引け目のようなところが古くにはあるのだろう。

兄と比べて自分は劣っている、というような思い込みがあり、その傷が発動する。そういうイメージ。

兄と物理的に離れて、距離ができてからは、そのような人を友人知人に登場させ、

その度に焦りにも似たような気持ちがわく。

あれに似ている。海外旅行などへ行き英語が話せたら、と帰国してすぐの頃にはそのように思い、

英語を勉強しよう、と教材的なものにお金や関心を瞬間的に注ぐ。

政治経済に強い人から、たとえば説教とまではいかなくても、そのような雰囲気の会話をした後などには、

よし、自分ももっと勉強しよう、などとかつては思い本などを買うが、つづかない。

読んでみても頭に入ってこない。その感じは、苦手な科目の勉強みたいな感じ。

その苦手を克服してバランスの良い人間にならなくては、という思いは年々手放しつつある。

そのおかげか、近年そのような気持ちにさせる人との接触がほとんどない。

 

苦手なこと。エネルギーを低下させるものや人。

自由に対する拘束を感じる場や人に対してそのように感じる。

それは相手が強いるものでは実際はなく、ただ自分がひとり勝手にそう意味づけているのにすぎない。

そこには「そうでなくてはダメ」という概念があるのにちがいない。


day8

きのうのことを書いておこう。「ハワイのこと」に取り掛かったら夢中になった。

みっちーが朝早くに出かけていったこともあり午前中から書き始めたら、なんだか興奮し、

お昼もとらずにずっと書いていた。

書いている時間というのは、ふしぎなことにハワイに意識が飛んでいる。

10年前の時間を生きながら肉体は2020年にあるその感覚がたぶんすごく心地良いのだろう。

そして、当時は書けなかったことが今は書けるようになっていることを知る。

それは技術の話ではなく、心の問題。

あの頃はまだ受け入れることができなかったことや、見つめることのできなかったものが、

時を重ねた今は、当たり前のようなものとなって、言葉にできる。

そうして当時の言語化不能なこと、未消化なものを今の自分が言葉にしていくことで、

10歳若いあの日の自分が癒されていくのを感じた。

当時の自分を「それでいいんだよ」と受け止めてあげている印象。

書くことはやはりセラピーなのだな。

 

使命を探る1日の終わりに、とにかく言葉にしたものは、

「目に見えないものを、よろこびとともに目に見える形にする」というもの。

しっくりきている。さまざまな点が線となっていくのを感じる。

手段はだからなんでもいいのだな。絵でも言葉でもその他のなんでも。

ただ、今日のぼくは文章が面白い。

ふしぎだ。

この何年も敬遠していたというか、あまり大切に思えていなかった作文が、

ここへきて、その存在感を一気に強めている。

 

 

今日のレッスン「ターニングポイントを探る」で真っ先に出てくることは、大学を中退したことだ。

おそらく前回も前々回も同じことを書いたと思う。それくらい決定的な転機だった。

完全にあそこから人生の流れが変わった。

ものすごく恐怖して、だけど抗えず中退をさせてもらい、専門学校へ進んだことは、

ぼくにとってそれまでの「常識」や「こういうもの」という世界観を覆した。

角度でいうと、180度の転換だったと思う。

あれがなかったら、と考えてもよくわからない。

あそこで辞めなかった人生に興味がない。

 

それから昨日ぶっしーが何かの話の流れから、

もしノムが「女性自身」の専属記者を続けていたら、という仮定のたとえ話をするのを聞き、

その未来を先ほど一瞬想像してみたが、それはやはりないことだったと思う。

お金を今の10倍近く稼ぐくらいのフル稼働をしていたとして、そのぼくはお金を何に使うだろう? と想像すると、

どう考えても、遅かれ早かれスピリチュアルというか精神世界に投じたと思う。

休みのたびに海外旅行へ行きまくるとか、マンションを購入とか、どこかへ留学とか、

そのようなことは、やはりなかったと思う。

精神世界に興味をもたず、そのようなことにお金やエネルギーを投じない自分がもしもいたら、

それは、今の、ぼくの知る自分ではない。

それはネガティブでもポジティブでもなく、ただ、自分とは違う人と感じる。

 

心や目に見えない世界は昔から好きだったし興味をもっていた。

そこに目を向けずに、外側の「海外」や「家」などに向く自分がもしもいたら、

その自分とは、きっとハッピーな自分な気がする。

自分と向き合いたくなくて外側に目をそらせるような感性ではない。

外側の充実を40代まで求めていられる自分とは、たぶん、内側が満たされている、整っている自分だと思う。

そして、そのようなハッピーな自分は、やはり、あのまま専属記者をつづけ、

日常的に働く日々では得られなかったと思う。

どのみちどこかで精神世界に傾倒し、仕事以上に自分と向き合う機会を求めただろう。

ifの話はifの話でしかないけれど、そう思う。

だから、専属記者を辞めた、毎日働くことが普通、という人生を辞めたことも、

ぼくにとって、ものすごく大きなターニングポイントだった。

 

その二つのTPで得られたものは、たぶん自信。

自分を信じる心だと思う。

自分がそうしたい! と、葛藤に葛藤を重ねた上で決めた選択は、信じるに値するということ。

飛び込む前は不安や恐れでいっぱいだけれど、飛び込んでみたらなんとかなった。

その2つの大きなジャンプを経たことで、2015年に一度仕事をすべてやめることもできたのだろう。

 

3つめの転機は、2015年の仕事をすべてやめたこと。

結局半年後には仕事の依頼があり、ライターを再開したわけだけど、

今書いていて気がついたことに、専属記者を辞めたときも、2015年のときも、

どちらもライター復帰のきっかけになったものは、それまでとは違う仕事だった。

そして、どちらも劇団四季の仕事だった!

なんというご縁。

 

仕事の流れや質を変えたくて辞めたわけではない。ただ、どうしてもそうしたかったからした。

結果、そこから自分の仕事の流れや、取り組み方などが変わった。

書くという仕事をずっと続けているが、大きくその仕事に変化をもたらせた。結果、そうなった。

 

こうして振り返ってみると、挑戦というか冒険がぼくの人生を大きく動かしている。

自分が決断したことがターニングポイントとなっている。

たとえば、事故に遭うとか、誰かに認められるといった、やってきたことではなく、

自分が能動的に選んだその決断が、そうしたことの前にあった。

あとは、恋愛というのも、ぼくの人生に大きな影響を及ぼしているものかもしれない。

ミッチーと出会ったことはいちばん大きなことだけど、それ以前の恋愛も、

いや「恋愛」というよりは、お付き合いだな。

ぼくになんらかの強いものをもたらすのは、ちゃんと「付き合った」関係の人が大きい。

とくに、別れを決めたり切り出したり切り出されたりした時というのが、分岐点感が強い。

はじめは、軽いのだ、ぼくは。気軽に始める。さくっと付き合う。

そこはいい。だけど、どの人とも別れの時は、重かった。いつもしんどく別れ、

結果、誰とも今は交流が一切ない。

元彼と友だち、みたいなことにはまったくならない。

その”決別”的な別れゆえ、より分岐点感が増すのかもしれない。

友人関係は基本、「断つ」とか「切る」みたいな発想をしない。去る者追わずではないが、

そのような流れに自然となっていく人がほとんどで、それに対してなんとかしようと思うことがほとんどない。

それは、関係が変わらざるをえないというか、関係、距離感を変えたいという感情が、

たとえあちらからそれを発していたとしても、同時にぼくもそれを感じているのだと思う。

そこのズレは、たぶん大きくないタイプの人間。だから、自然と距離感が変わる。

 

ターニングポイントで言えば、Xさんとは友人だったけれど、意識的に、心を決めて関係を変えた。

あれは、まぎれもなく人生の大きな転機だった。

なぜかというと、学校や仕事を辞めることは環境を変えることで、それをすることの抵抗は、

自分のその後への不安や恐れによるものだけど、

対人間の場合は、そこに軋轢というのか、遺恨が残りやすく思う。

できればそのようなことはせず、自然にフェードアウトさせたい。

恋愛の場合はしかたがない。一応「付き合いましょう」という言葉による契約を結ぶのだから、

それを解消するには、ふたたび”解消”の契約を交わさないとならない。

それを当然と思うから、しんどくてもやる。きっちり別れを告げるというその行為には抵抗がない。

が、友人関係の場合は、そういうものとは違う。だから、思えば、あれが人生で初のケースだったのだな。

ぼくは長いメールを書いて、送った。そこにはっきりと「関係を変えたい」と書いた。

どうにもそれまでの関係が苦しくなっていた。

が、双方にそれがあったわけではきっとなかった。だから、自分が切り出すしかなかった。

 

その選択で得たものとはなんだろう? 自由だ。心の自由を確実に得た。

ぼくをジャッジする権利を持つ人がいなくなった。いや、もともとそのような権利はないけれど、

当時の自分は、完全に相手にその権利を渡していた。

そうなると、自分のやることなすことに正否の判定をくだされる。

自分こそがそれをされることを当然と考えている。

それでは自由はない。自由になにかをしようと思っても、

それを否定されたら、即座に「自分は間違っていた」と思うのだった。

もし、あの決別がなければ、絵などとても描けたものではない。

絶対はないが、絶対に今のように絵を描いてはいなかったと思う。

こうした文章は、当時も書いていたけれど、それを人目にさらす際には、

いつもXさんに何を言われるのかを気にしていた。

褒められたいという気持ちもあったと思う。が、怒られないかの心配の方が100倍くらい大きかった。

失敗しないように、間違わないように、怒られないようにした何かは、

自分が始めたことであっても、自分のものとは違う。違うことはないが、純度は下がる。

人に気に入られるように、受け入れられるようにとつくるものは、アートとは違うものだろう。

 

そう思うと、あれも、まぎれもなく超転機だったのだな。

そこには超勇気が必要だったし、その後も長年にわたり自分を癒す必要があった。

習慣とはそういうものだ。

専属記者を辞めてからも何年も締め切りの木曜日になるとそわそわした。

ああ、今頃は編集部でみんなが働いているのだろうな、と、ヴィジョンがわいてきた。

今はもうそれを思うことはない。ちょうど今年で辞めて10年になるのかもしれない。

Xさんとのことも、その存在を日常的に気にしなくなるまで何年もかかった。

今も100%消え去ってはいない。まだ、うっすらとつながりはある。

そのつながりさえも断つことが自分の本心なのかがずっとわからない。

たぶん、そういうことではないのだと思う。

双方にとっていい気持ちで付き合える距離感、関係としてつながっていたいのかもしれない。

その距離感が、今のこの状態なのかもしれない、と今思った。

そう、だから、別にこれでいいのだな。

数年に1度くらい連絡があって、それに応えたりして、そういう距離感で。

そこに対して、断ち切らなくてはと思うことも、もっと密になったほうがいいのかも、と思う必要もない。

変化は無理に起こすことではない。

 

上にあげたどのTPも、やはり自分の決断、選択によるものだった。

それから、それをする前には、当たり前だけど、必ず自分の内側にその種があった。

「こうしたい」という気持ちがあった。それは強いものだった。

それは、選択肢があるようでないものだった。自分の中で「ねばならない」というものだった。

 

今、書いていて、もっと自分を信頼しようと思った。

信頼していいだけの実績があるじゃないか、と思った。

信頼には実績などいらないのかもしれないけれど。

 

それからTPは、一瞬でやってきて瞬間的、瞬発的に決めなくてはならないというものではなく、

選択をするにふさわしいだけの猶予が与えられているものかもしれない。絶対的に


day7

もう7日目だったのか。早い。そして、今回は何度も書いているけれど最初の2日がきつかったが、

こんなにしんどく取り組むのは違うかも、となり、自分の形で行っている。

「自分の形にした」ことを咎める自分も感じるけれど、どちらがエゴの声、働きなのだろうか?

あ、でも、自分にとっての「今」が心地が良い方が本当だ。より自分の真実みたいなものと近いのだろう。そう思う。

さて、今日は「人生の使命」を知る日。

前回、前々回もこの日はとてもワクワクした。

けれど、何を「使命」と感じ、それをどう言葉にしたのかは覚えていない。

アトリエのどこかに、それらは残っているはずだけど、探そうとも思わない。

過去は過去。今は今。今の自分にとって「これ」と感じるものを、今の自分がキャッチする。

 

風の週の今週には、いろんなことがあった。

思い浮かぶことを列挙していこう。

まず、今日はぶっしーから「今日かこの週末にノムと話がしたい!」と連絡があった。

昨夜はたまちゃんから「会いたい」とのメッセージ。

思い返せば、そういうことをときどき言われている。それはとてもうれしいことだ。

誰かと話がしたいのではなく、あなたと話したい、あなたと会いたいと言われる自分でありたい。

それには、自分らしく生きていることが必須なのだろうと思う。

あたりさわりない言葉をあたりさわりないように発し、

あたりさわりのないエネルギー(そんなものはないか)で存在していたら、あなたじゃなくてもいいもの。

自分のまま、あるがままに生きること。

これは、ぼくの、人間の使命なのだろう。

 

それから今週のとても大きな出来事として、数日前の錦糸町での食事会がある。

まず、錦糸町に19時半に行くという設定が、ぼくには好都合だった。

その時間に合わせて向かうと電車も混みそうだし、早くに行こうとなり、目的はブックオフ一択だった。

即座に「錦糸町 ブックオフ」と検索し、お店のごく近くにあることがわかったので、一目散にそこへ行った。

その店がまた、すばらしい品揃えで、たいへんワクワクし、津留晃一さんの本を初めて手にした。

なぜブックオフが好きなのかというと、いろんな本が混在しているということがある。

新品書店だと、古本の扱いは基本的にないし、

こだわりの誰かのお店だと、お店の誰かのセンスやら世界観が反映されている。

どちらもどちらですばらしいのだけど、ぼくのいちばんの好みは、偏りがなく、なんでもあること、

それから「宝探し」的なものであることが、なによりも重要。

ブックオフはその条件を満たす。

津留さんの本は、新品書店でもセレクト本屋でもブックオフでもこれまで一度も見たことがなかった。

ただ、一度も見たことがなかった。探したこともなかったし、あるとも思わなかった。

だが、それがあった。たしか210円だった。

翌日、ネットで検索したら、やはり珍しいもののようで、5000円くらいの値段がついていた。

これを売ればだいぶ儲かる、とも思うが、読み出したらこの本は一生モノというか、

簡単に読んで手放す本ではないことがわかり、売ることは目下の頭にはない。

 

その、津留さんの教えというか、

津留さんを通して書かれたメッセージとここで出会ったことが今週の大きな出来事のひとつ。

もちろん、それまでにもネットで何度も読んできたけれど、

今回の本は、質問者との対話という形で、たいへん読みやすいし、わかりやすい。

読みながら、ほぐれていくのを感じている。

そして、自分も、こういうものを書こうと思った。でも、それは形の話ではない。

メッセージの質において、いつか津留さんのようなものを書く。本物のメッセージを。

 

そして、食事会にて志野さんとあのような席に座り、「最近どう?」と尋ねたあの流れ。

そのことにより、10年前に書いた小説「ハワイのこと」の感想を今あらためて聴くこととなった。

それは、渡りに船というか、まさにメッセージだった。

ぼくは、今そのようなことをしたいのだと思った。

志野さんは吉田さんの言葉を、いつ放たれたかわからないかつての吉田さんの言葉を伝えてくれた。

「加筆修正をしたら本になる」

それは、とても励みになり、一気になにかがひらく言葉だった。

 

今、思った。この本を書き上げて、吉田さんに見せたい。

そして、その本が出来上がった背景にはあなたの言葉があったのだと伝えたい。感謝を伝えよう。

 

それから、昨日のぞみさんにホロスコープのリーディングを文章にして送った。

なんだかやろう、と思い、すぐに取り掛かり、すぐに送信した。

すぐに彼女からも返事があり、「すごいんだけど!」と、

受け取った興奮なのか高揚したエネルギーがまっすぐ伝わる短い文面に心躍った。

そうか、そういうこともできるのか、自分は、とあたらめて思った。

 

できることをしよう。

できないことをやろうとしなくていい、できることをしよう。

できること、したいことをしよう。

それが自分と一致することだ。

 

100%の、完全無欠な人間になる必要はなく、きっとそんな人間はいない。

誰でも凹凸があり、それが個性であり、人間の完璧さなのだと思う。

自分が違和感をおぼえることを、無理して自分にさせることはやめよう。

会いたくない人と会うことも、やりたくないことをやることも、やめよう。

そのように生きてみて、もしも不都合があったら、そのときに修正すればいい。

忖度しない。

 

しかし、今は文章なんだな。書くことがたのしい。書くことに気が向いている。絵ではない。

ひとしきり書くことをやったらおそらく、必要な、必要というか最適なタイミングでまた絵を描きたくなるのだろう。

それにはほとんど疑いがない。確信がある。

なぜなら、そうやってこの5年近く絵と向き合ってきたから。

それでオッケーだったから。

無理してやっても描けないし、そのときがきたら、バーっと取り掛かれる。

いや、とにかくやろう、というスイッチが入ってやったこともあるが、それもひとつのタイミング。

起こることは起こる。起きていることに間違いはない。そう思う。


day5

今日はレッスンのことをほとんどやらなかったが罪悪感はない。

それでいいか、と思えている自分がいいな、とも思う。

このように人生の後半戦は生きていきたい。ある意味、適当に。自分にやさしく。

 

最近思うこととして、いや、思うのではない。思うだけならずっと前から思っていた。

思うのでも考えるのでもなく、それこそ腹に落ちるという”感覚”のことかなと思うのは、

本当に、自分が思うように生きたらいいのだな、ということ。

人の目を気にしないということは、目下のところは難しいけれど、

人の目が気にはなるが、ま、いいか、とやる。自分のやってみたいようにやる。

あとさきを考えないというと非常に無責任に感じるが、でも、それくらいに気楽にやっていきたい。

やっていっていいのだ、と思う。

だって、保証などなににせよないのだ。人生には誰も責任をとることはできない。

自分が、自分の人生を自分らしくまっとうすることだけが、自分がとれる責任。

そして、それが「自由」ということかもしれない。

 

レッスンと何が関係していて、何が関係してないかなどぼくにはわからない。

というか、関係していないことなどないのだろう。

今日は、ふとInstagramにて、とても魅かれる広告が目に入ってきた。

それはフランスだかで開かれるアートの公募展。ひとりのアーティストが選ばれて、

支援金として600万円が与えられるという。お金のことはひとまず、

そのような機会が世界に用意されているのだ、ということを知らなかった。

そのような視野で見ていなかったし、ふしぎなことだけれど、まったく自分にはない発想だった。

でも、思えば、写真などにはそうした公募はたくさんある。

絵やアートにあってもまったくおかしくない。

ぼくには、まるでそうした頭がなく、ただ展示をつづけていくことだけが道と思い込んでいた。

だけど、その広告を見たときに、ワクワクした。

結果がどうあれ、応募はしてみようと思った。

目標、具体的な目標が突如やってきて、とてもうれしい。

さらに、しのさんから昨夜、「ハワイのこと」を加筆修正したら? と提案され、

その提案にもじわじわと心が躍っている。おもしろそう。やってみたい。いや、やろう! そういう感じ。

 

今、非常によい流れのなかにいる。まちがいなく、よい流れ、よい風が吹いている。

いろんな点が線となってつながっていくのを感じる。

この道で間違いがないのだろう。すべてはあるべきように進んでいる。

 


day4

 

今日のレッスンは自分を俯瞰するというもの。

聖なる観察者となり、限定的な”自分”を客観的に眺めよ、とのこと。

それをしている。それができるとき、できている瞬間は、”自分”から離れている。

離れているということは、離れた場所、離れた自分が存在しているということ。

それは、そこは、魂の在りかなのかもしれない。

そこに立っていると、自分のこと、目の前の状況のすべてが感情やらから切り離される。

ただ、「それが在る」という感じ。あるいは、流れ去っていく瞬間たち、という感覚。

そこにいればきっと、とても心穏やかにいられるのだろう。

 

客観していると自分は、よくよく考えることをしている。おもに先のことを思考、シュミレートしている。

今夜なにを話そう? 今夜なにを着ていこう? 今夜の帰り時間はどれだけ寒いのだろうか?

来月の家賃、再来月の家賃はどうして払おうか? 先々にどれだけお金が入ってくるのだっけ?

延々とそういうことを頭に描いたりしている。

その”自分”と一致すると、感情が揺れるし、ここではない場所にいる。

ここではない場所に意識はあるのに、肉体はここにあることがもどかしいような、間違っているような、

なんだか焦りに似た落ち着かない感覚となる。

 

それから、スピリチュアル・レッスンに関しても、レッスンに取り組むあり方をダメ出ししようとしたり、

もっとちゃんとやらないと! というような叱咤の声が聞こえる。

真面目というのか、いや真面目というよりも強迫的な自分を知る。

その急かすエネルギーに急かされ、何かをしないと、と心を置き去りに行動に移そうとする自分がいる。

でも、どこかから「急がば回れ」「急いては事を仕損ずる」などの達観した風の声も聞こえる。

どちらの自分に従うか。どちらの世界観を信じるか。それを選ぶ権利をぼくはもっているのだ。

 

今回の3度目となるスピリチュアル・レッスンは、前回、前々回とは違う適当さが自分にある。

思いつめてやらない。タスク的にやらない。自分に甘くする。楽で、ラフにやってもよし。

そのように思っている。

 

やり方にも規則を決めず、

この記録もパソコンに記したりブログに記したりノートに記したりnoteに記したり、

フレキシブルでいいじゃないかと思う。

書かない日があってもいいし、レッスンをスルーしたっていい。

そのようにイベント的にやってみようと思えたことで、3日目から一気に楽になって、目の前が明るくなった。


day3

話したい、と久しぶりに友人から連絡があり、よもやま1時間半弱話したのは土曜日だったか。

電話というのは、時にとてもたのしい。

家にいながら、外の世界を知ることができ、終わったら即座に自分の世界に戻れる。

アナログなんだかハイテクなんだかわからないけれど、魔法のよう。

 

友人・Kは電話の最後に、手品のようにパっと本をだしてきた。

それはハードな浄化を促す work book「スピリチュアル・レッスン」

よかったら、一緒にやりませんか? と彼女は言い、やる! と即答した。

渡りに船ではないけれど、ここのところの超モヤモヤ期に絶好の誘いと思った。

 

そうして迎えた初日は、最悪だった。

自分と向き合うことがとことん嫌だと感じながら、真面目に取り組んでみたけれど、

どんどんしんどくなり、突っ伏すようにしてホットカーペットに寝ていた。

これを28日間つづけることが、心底嫌だと初めて思った。

過去2回は自分のタイミングで自発的にひとりで行っていたからか初動はやる気いっぱいだったが、

この度はこれまでとは違い、苦行のように感じた。

 

2日目も同様。やる気になれない。とても眠い。向き合いたくない。

なので、ほどほどに取り組んだ。

今回のレッスン28日間の自分の中のテーマは「自分に優しく!」と据えた。

 

そして本日2月3日、day3。以下はおいせさん手帳につけている日記件、スピリチュアルレッスン記。

 

 

【6ハウス・魚座・火星】

 

あたらしいものに、未知なるものにとびこむ勇気を。

自分の力を過信せず、けれど不信をもつことではなく、きっちりとみつめる。

存在が人の癒しになる。

 

 

今日は90年代のドラマを未明にみていた。

90年代の自分と時をこえてつながったかのようなふしぎな時間をへて、また寝て、起きて、

11時すぎ、母から今日の予定をきかれた。

今日は71回目の母のバースデー。16時半に吉祥寺に集合となる。

スピリチュアル・レッスンも急いで行い、1時間半ほど風呂そうじ。

みっちーに急かされ支度をし、出発。

会はとてもたのしかった。おなかいっぱいに寿司を食べる。

その後、実家でケーキ。母の不要物をメリカリに出す計画を実行すべく、ひきとることとなる。

まつわる思い出話などきき、たのしかった。

父母とすごす時間は近年もれなくたのしい。

すごくすてきな夜。1日だった。

明るく生きよう。


day 28

本日でレッスンは終了。

そのことがどう関係しているのかはわからないが、とっても眠い。

明日の準備をしなくては、と思いながら、気力もわかずボーっとテレビ。

今夜はつかいものにならないみたい。

 

合言葉は「わたしは心からの愛を与え、心からの愛を受け取る。わたしの本質は愛だ」

 

初めての方にインタビューをする緊張からか、

なんだかあまりよく眠れなかった昨夜。

夢は少しもおぼえていない。

 

こう、こう、こう、と頭で描いていたシナリオとは違ったけれど、

とにかく無事に仰せつかった役目は果たせたと思う。

打ち上げ気分で帰りはプラス510円で特急列車。

うっかり寝すごすところだった。

 

あー、終わってしまった。

とにかくやりきった。

 

毎日2つの記録をつけるという通しレッスンは、

このブログと、ちいさい絵を毎夜1枚描いた。

 

どちらもそう手間はかからないが、

毎日、必ず、となるとそう楽ではなかった。

 

でも、やってよかった。ほんとによかった。

 

たったの28日間ではあるけれど、

自分との約束を果たせたそのことが、すごくうれしい。

 

 

 

 

すばらしいね、あなた!

 

 

夕飯は2日目のカレー。

 

あまりにおなかが空いていたため、

特大のごはんを2つ解凍するも途中で満腹に。

とても珍しく残してしまった。

 

カレ不在のレアな夜。

とくに何するわけでもなく、今に至る。

 

最終日にひとりというのも、なんだか面白い。

誰もいないし(猫はいるけど)、レッスンの最後にあった「ダンスをたのしむ」をこれからやってみようか。

 

夕方、都心の乗り換え駅で、最近話題にのぼった友人とバッタリ。

互いにそう驚かず、すぐに話し始め、すぐに別の場所へ向かい別れた。

 

明日はなにがおこるだろう。

未知をたのしみに目覚められるよう今日に満足して眠ろう。

 

おつかれさまでした!


day 27

あ、気がついたら明日がレッスンの最終日だ。

そんなテンションでこれを書いている今日がふしぎ。

 

明日から数日仕事があり、どうしても落ちつかない。

 

3年くらい前まではこちらが日常だったのにね。

人生にはいろんな時代があるものだ。

 

本日の合言葉は「わたしの未来は愛と喜びと平和に満ちている」

 

まさに理想の未来。

その理想を現実にできるのは自分しかいない。

 

教えは、未来のありたい自分で1日過ごせ、というもの。

肉体からふるまいから感情から、演技のようにして理想の私でいることを心がけよ。

 

でも、ほんとうにそうなのだろう。

ある日、望み、決め、それを継続することだけが夢を叶える道かもしれない。

 

レッスンには、15分目をつむり望む未来を想像せよ、というものもある。

これはお風呂でやってみよう。

 

それにしても、20代からやってきていることなのに、

ほとんど毎回、インタビューの前日は憂鬱になってしまう。逃げたくなる。

向いていないなあ、と思う。

じっさい、それで「やめます」宣言を2度もしたが、またやっている。

 

 

夕飯はカレー。

おすそわけでもらった大根をつかったサラダ。

 

明日、仕事で外泊する彼は、お母さんみたいにカレーをたくさんつくってくれた。

ご飯も多めにたいて、冷凍してくれた。

 

 

 


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