1月11日 ひらめきの夜

 

健康は、手に入らない。なぜならすでに健康だから。

そういうことだ。手に入らないものの中には、すでに手にしているからこそ手に入らないものがある。

なくした時に手にあったことに気がつき、もう一度手にしたいと求める。

 

ぼくは、何を欲しがっているのかと、さっき、旅する友だちのインスタグラムの投稿を目にし思った。

物はたくさんもっている。食べものもあって時間もある。

ぼくはただ、もっと自分をおもいっきり表現してみたいのだと思った。

 

根拠はないけれど、どうやらぼくは、自分のことを高くかっているのかもしれない。

もっと面白いはず、と。もっとあらわせるはず、と。

そして、そのあかつきには、誰かのおおきな称賛のようなものがまっているはず、と思っているみたい。

機会が与えられたらできるのに、と。

ならば、機会を自分で与えればいいのだろうね。

自己満足。自分が満足できたらよいのだ、きっと。

満足というか充足感。

 

さっきお風呂で絵とむきあっていて、自分が何をしているのかよくわからなく、

とっても手におえないことをしている気持ちになった。

だけど、やめたところで満たされない。

自分を満たすものは表現だとしっている。

そこを避けたところで他に興味があることがないのだ。

買いものも、モテることも、お金稼ぎも第一にあるものではないのだとしっている。

逃げることがもうできないところに人生の歩みはすすんでしまったということかもしれない。

あとは、やるだけ。

おこなうしかないのだろうな。

 

痛みのない身体、

雨風しのげる家、

すばらしい恋人、

かわいい猫たち、

やさしい家族、

たのしい友人、

お金を得られる技術。

 

ひとつひとつ、少しずつ時間とエネルギーを注ぎ、40になるまでに手に入れたのだ。

いや、手にいれるものではないのかもしれないが、自分の体感というのか感覚として、

それらはすでに在るのが今日なのだ。

それらを強く求め、行動し、そのようになった。

 

同じところをグルグル回っていても仕方がない。

あたらしいところ、在り方へ目下、日々むかっているということだ。

それには人と比べても、人に従っても意味はなく、

自分の求める道をゆかなくてはならない。

 

今日、めい想の時に、罪悪感が浮上。

人の役にたっていない、自分のために生きていることへ罪の意識をもっていると気がついた。

それは、人として当然のことのように思えるほど深く思いこんでいる価値観なのだった。

 

働くことは、お金を得ることであり、それは誰かの役に立ったということで、

お金を稼ぐ毎日でないことは、人の道を外れた、人様の役にたっていない毎日ということで、

そんな自分を認めない、罰する自分がいる。

でも、より強い自分は、それでも自分を優先させることを選んでいる。

だから、この日々がある。

 

このかっとうを手放せたら、今よりも気分が軽く、楽になれるのだろう。

とはいえ、仕事を断っているわけではないのだからいいではないか。

NOとはいっていない。きたらやるのだからよいではないか。

人に求められていない今は、自分の求めに応じたらよい。

ねたいならねればいいし、働きたいなら働けばいい。

そして、絵なのか文なのかとにかく、自分の人生のために創作をつづけよう。

焦らず、逃げず、ただやろう。

 

そんなことを思った1月11日。1、1、1。

明日は満月。

 

 

2年前の今日のぼくは、そんなことを思いながら床についていたみたい。

2年後のぼくは、映画をまたレンタルしてきてみた夜。

アッバス・キアロスタミ監督の「桜桃の味」。

 

自殺したい主人公の1日のことを描いた物語。

 

ぼくも死んでしまいたいって思いつめていた時代があって、

ちょっと懐かしく、いつかの狂いそうな夜のことが残り香みたいにふわっとよぎった。

 

あの頃のぼくは、どうしたらいいかわからない! って発狂寸前だった。

今のぼくは、死にたかった時代には「あたりまえ」だったことが、

生きていることのよろこびみたいに思えていたりする。

 

あったかいごはんとか、好きな人と飲むコーヒーとか、

友だちとおしゃべりとか、くだらないテレビをくだらねーと言いながらゴロゴロみるのとか、

お風呂とか、読書とか、作文とか、絵とか、

そういう日常のいろいろを、

いつもじゃないけれど、ふと、

ああ、いいな。

って思える。

 

このあたりまえのことを支えてくれているのは、

あたりまえの奇跡的な連なりというか連動というか関係なわけで。

なにかひとつ違ってしまえば、すべてが違ってしまうことだってある。

 

とにかく、今日も豊かであった。

車の中でひとりで大きい声で歌ってたのしかったし、

200円の好きなペンの初めての0.4mmをつかって手紙を書いて出して心がおどったし、

友だちとご飯の約束をしたし、

これからお風呂で今日買った樹木希林さんの残した言葉の本を読むたのしみが待ち、

さらにあたたまりゆるんだ体で布団乾燥機であたためた布団にくるまる幸福感は外が寒い冬だからこそ。

明日の昼はトーストに何をのっけて食べようかとおよそ12時間後のたのしみもある。

 

2年後の1月11日に、まだ生きていたら、またここにその日のことを書いてみようかな。

 

see you again!!


12月14日 ふたりの夜

 

久方ぶりにMとねている。

ゆうべもねていたけれど、今夜ようやくいつものような夜をすごし、今にいたる。

ふたりでごはんをたべ、TVをみながら甘いものをつまみ順番に風呂につかり、ベッドに入る。

久方ぶりといったものの、

すぎてしまえばひとりですごした日々は夢の中の出来事のように、ウソのようで、実体がなく思える。

というかもう実体は本当にない。

いったい何が残ったのだろう。経験? 経験さえも幻のように思える。

たしかなものはみつからないけれど、ただ、

ぼくの中で1人ですごした日々に得たわずかながらの自分への信頼感、尊敬のようなものはある。

目にみえないしふれられないけれどなぜだか在ることがわかる。

けっきょく、何が残るかというと、

そうした経験をとおして得たような感覚というのか感情というのか、ふたしかな何かなのかもしれない。

それってなんだか面白い。

お金や物質というのは、在ると信じられる場合、生きた証として機能する故、

それを求めて生きることができるのかもしれない。

 

本日は原稿デー。仕事へ出かけるMを見送り、ルーティンをこなし、

作品のDVDをもう一度みて、原稿にむかったのは15時半すぎだったか。

珍しく時間がかかり20時をすぎてもまだ書きおわらず少ししずんだ。

そしてヒーターで暖をとり、一服するとアイディアがうかび、ひとまず書きおえ、目下返事待ち。

今日はもう考えずねよう。

 

晩は22時すぎにMのつくったパスタ。

明太子、キャベツ、玉ネギ、マヨネーズ、こしょう、あまに油などでつくられたパスタ。あとツナ缶が入っていた。

それがとてもおいしく、幸福感。そんな満月。今年さいごの満月デー。


10月21日 すこし冷えた夜

 

今朝は6時くらいに目が覚めた。なにやら面白くリアルな夢をみた気がするが忘れた。

そして、布団の中でしたいことを考えた。問いかけた。

これ! と浮かんだものがアトリエへいき絵とむきあうことだったので、

しばし迷ったが起きて実行することをえらんで起床。絵を描いた。

ここのところ紙に描くブームのようなものが去りキャンバスにむかっている。

紙とキャンバスではぼくの中でおきることがちがう。回路がちがうような感じだ。

そしてめい想。最近というかあたらしいマントラをうけてから熱心にめい想をしている。

めい想こそが1日のやるべきことのようにすら感じてやっている。

かといって、なにかがあるわけではないが、なにかがおこっていると信じている。

信じられるものがあるというのは心強い。

自分を心から信じられたとしたら、つねに自分をよりどころにできて死ぬまで安心かもしれない。

今、毎日そのレッスンをしているのかもしれない。

 

9時すぎごろ車やってきて、水まわりの工事の下見でさわがしい敷地。

Mがおきてきて参加しているのがわかる。

家の補修関係はMにまかせっきり。ぼくも関係者と話しをすることはできるけれど、

そしてよっぽどMより得意と思っていたし、苦労もなくやれる気がしていたけれど、

Mにまかせられたことで、本当はそうしたことをしたくない、

面倒くさいと思っていることを今朝あらためて自覚した。

できるけどしたくないみたい。世間との顔というか、人づきあいスイッチを入れるのがおっくう。

どれだけワガママなのだろうか私。

 

一行が帰っていったのでぼくも家へ。お昼を食べながらMとそんな話をした。

Mもスイッチを入れるの面倒みたい。でもやってくれている。ありがたいことよ。

午後、大家さんくる。また庭の手入れ。Mは料理。ぼくは絵。ぶつぶつと自問自答。

何をしているのか? これが何だ? だけどいちばんしたいことがこれなんだ。

そして人から求められて今日やる必要のあることはない。

だからこれをしている。絵を描いている。

「純粋」とこの間、Iさんにいわれたけれど、ぼくは純粋なのだろうか。

そうこうしているうちに夕方。まためい想をして夕飯タイム。

今日は久々に「怒り新党」をみた。それからお風呂。

益永さんの本を頭からようやくよむことにした。とてもおもしろい。

益永さんという人のことが伝わってくる。とてもシンプルな人と思った。

立ちどまって「何故?」と考える。わかったら動く。ふつうとか、みんなとかに流されない。そのつみ重ね。

お店もその延長線で自然に始めたよう。必要なものが手に入らないから自分でそれをおこした。という感じ。

ぼくの今も近いかもしれない。

ただ、ぼくの人生は、遠回りというか、ここに至るまでの寄り道みたいな時間が長かった。

ようやく40才になって歩みはじめたようなゆうちょうさ。のんびりしているのかもしれない。

 

今日は印象的なメールが2通。Tさんからのこの間おくったメッセージの返事におどろき。

つよく印象に残っている。

Tさんにおこった事実はなんとなくしっていたけれど、心情はまったく想像していなかったのだとその吐露で気づく。

力になりたいと思ったが、何がぼくにできるのだろうか。なんと返事をしたものか。

もう1通はよっこちゃん。

この間、話にでた「エネルギーフィールド」の本は、ドランヴァロ・メルキゼテクさんの本でしたとのこと。まさか。

まさによっこちゃんと会う前にドランヴァロのワークショップに参加していたのだった。シンクロ。

 

このごろは、そうしたことが以前よりとてもひんぱんにおきている。

アートブックフェアのバッタリ感とか。

よっこ彼の個展場所やジーンズ。くうことの会話、WをBBQに誘うこと。

そうした偶然がぼくには、流れにのっている合図に思える。

この日記帳、日記を書く久しぶりの習慣もたまたまだ。

必要なことだけがピンポイントにおきているという印象。明日は何がおきるのだろうか。たのしみだ。

ムダな抵抗はやめて宇宙と同調していればスムーズに運ばれていくのだろう。

しかし、この秋はいろんなことがおきた。

車、パソコンは中身が変わり、TVと屋根、テラスは新しくなり、

Mとぼくはあらたなレギュラーの仕事をスタートさせ、くうこはひっこしていき、

Hさんと再会し、マメちゃんと角田さんから絵の道しるべをもらい、

さっき敷地の足ともいえるビーサンがこわれた(けっこう長年使っていたもの)。

めい想もあたらしいマントラを受け、ATIHも再開し、

SOMAに気に入りの絵がいって、あたらしい絵がうまれて、ほかにもいろいろありそう。

くうこからは服などもらい、靴などを処分し、庭はきれいになり、

いろいろな人と再会し、はじめましてのすがわらさん。

この間のおまちゃんの日は、

舩橋陽さん、チャコさんと同じ時空に(どちらも好きな音楽家。近距離にいたが話すタイミングはなかった)。

大変革の秋だ。

 

ふと不安におそわれるけれど、さっき風呂あがりに、まだ絵に軸足をうつして1年半じゃないか、と思った。

1年半に3度ちがう場所で個展をひらき、そのつど出会いもあり、焦ることはないと思えた。

着々と心がつくられ、それにみあった現実があらわれている。

そのことを信頼して益永さんのように立ちどまり、自問し自分なりに日々を生きていけば大丈夫だ。

感謝に目をむけて、ありがたがって生きていこう。年を重ねていこう。


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