nomunoteより

正しい生き方があると信じていた。

”そうあるべき”生き方があると思いこんでいた。

そのように教わった、吸収した(教育、マスメディア的なものより)

 

あるべき姿

 

マス的な社会においては、たとえば高学歴とか高収入とかステータスの獲得的なこと、

結婚して子をもち育てる、マイホームをもつなど。

 

育った家は、そうした意味では”あるべき姿”にそったもの。

ある意味では”ふつう”の家。

うまれた場所がそこであったために、全身でそれを吸収した。

 

しかし、ぼくにはその”あるべき”像にそぐわないものがあった。

たとえば、考え方やセンスみたいなものなら合わせることができる。

自分を殺すことはできる。

けれど自分の同性愛の部分は、おそらくは生まれながらに備わったもの故、

どうすることもできない。変更ができない。

 

で、ある一方、ゲイはカミングアウト、自分で認めることがなければどこまでいってもグレー。

Yes でも No でもないような状態にあれる。

ノンケの仮面をつけて生きていくこともできる。

変更はできないけれど、隠すことはできる。

なかったことにはできないが、押し殺すことはできる。

→25才くらいまではそのように生きていた。

 

正解、正しさは、強い。つよい力となる。

隙がない正しさは、それを向けられ問いただされた者をどこまでも追い詰める。

 

「なんか(感覚)ではわからない」

「なんかということは、自分の掘り下げが足りていない」

「知識が足りない、経験が足りない」

 

人はそれぞれちがう。

生まれた場所(物理的なもの、環境、時代)がちがう。

 

ちがう人間がちがう人生を生きてきて、歩んできて、ある時に接点をもつ。

それが”競争”や”上下”などの価値観にもとづいた出会い場合、マウンティング的なことがおこる。

 

一度の人生で体験できることには限りがある。(AをえらぶとBはえらべない)

ということは、必ず”足りない”部分、見方、捉え方はできる。

巧みな競争心をもつ人は、足りない部分を指摘する。

ひとつの価値観のもとにあると、そこで優劣、上下がつけられる。

 


11/11

モヤモヤ、悶々するとぼくは書きたくなるようだ。

今日は久しぶりにノートをひろげ書くこと30分くらいか、1時間やっていたか。

書いているうちに少しずつほぐれ、かるくなっていった。そして絵を描いた。

とにかくやってみよう。その感じ、久しぶりな気がした。

なんでぼくは絵を描いたり、それを発表などしているのか、と思いながら、紙とむきあっていた。

その時、すこし自分が納得する何かにたどりついた気がするけど忘れてしまった。

生きていることの意味すらわからないのだから、絵を描く意味だってわからなくてもおかしくない。

ただ、それをしている。

少なくとも”したい”という能動が1ミリもなかったらきっとやっていないだろうと今思った。

なんでもそうかもしれない。

行っていることには1%くらい”やりたい”という動機はあるのかもしれない。

それを自覚しているか否かは別として。

 

子どものころ、何故、家にいたかったか。

大人になったときに、今のように家の中にいつづけられる方法はないか、と、家にいつづけようと望んだのか。

それには家という安心スペースにいたいというのはもちろんあっただろう。でも、

もう一歩掘り下げて、あるいは別の見方をしてみると、あの頃の自分はすでに理想というか、

将来の夢のようなものを実はずいぶんと早い段階から抱いていたのかもしれない、と今夜、はじめてそんなことを思った。

 


癒し

 

こんなに大きな会場で、こんなにたどたどしい弾き語り。

 

世界はいま激動で、ちょっと意識を向けて行動を起こせば、

さまざますぎる情報がどどっと押し寄せてくる。

気をつけてはいるけれど、強烈なニュースが多くて、ちょっと疲れてしまう。

 

でも、いいんだよね。たどたどしくても。

自分の道を自分のペースで歩いていれば。


7冊目

 

Instagramに投稿し、それをFacebookに連動させてみているのですが、

どちらの世界のぼくの関係者にも、7冊の中でいちばん響いていなさそうだったのがこの本。

紹介者として、この本の魅力を伝えられなかったのならすごく残念!

だって、この本、ほんとにすごく面白いのに。

だって、この表紙、ほんとにかわいくないですか?

 

でも、それがセンスというもの。価値観というもの。

そういうことを思い知るよい機会でもあったな、ブックカバーチャレンジ。

 

個人的にこの企画の真骨頂は、「#ブックカバーチャレンジ」にあるのではないかと思った。

インスタでこのハッシュタグで検索すると、それはもう色とりどりの本がでてくる。

古いのも新しいのも絵本も写真集も哲学書も。

そして、その写真の撮り方にもセンスはもちろん、意図みたいなものが感じられて面白い。

 

気になった本をひらき、その人のプロフィールをみたりして、

この本が好きな人とは気が合いそうだなとか、

いつかどこかで出会うことがあるかもね!などと妄想したり、飽きない。

でも、飽きた。

 

人の本にもっと興味をもつかと思ったけど、そんなに興味がないということを知った。

本なんて、別に読まなくていいなら読まなくていい。

ほかにいくらでもやることはあるし、なにもせずに寝る贅沢を贅沢とぼくは思う。

だから、あえて、面白そうな本を知ろうと情報収集する必要性を感じなかった。

出会うべき本とはどうやったって出会うって思っているみたい。

必要な情報は、どうしたってやってくるに違いない。

 

うれしかったのは、まだ会ったことのないゲイと思しき若い男の子が、

ぼくの投稿を見て、本を購入してくれたこと。

これはわが思い込みではなくて、その人から「のむらさんの投稿を見て買ってみました」と、

ご丁寧にメッセージがあったから。

それは、とてもうれしいことだった。

 

最近、わたしの占星術の師匠に昨年の秋に個人鑑定を受けた際に言われた、

43歳の間に、自分が何を求めているのかとじっくり向き合うといいと思いますよ。

44歳は、おそらく浩平さんにとって流れが早い年になるので。

 

というメッセージを、なんとほぼ毎日のように思い出している。

でも、わからない。いや、わかっていると思っていることが更新されない。

ずっと同じところをグルグルしている。

でも、最近、また本との出会いがあり、そこに記されていた言葉に、

見えなかったなにかが見えてきている感じがある。

 

なにを書いているかわからなくなってきていますよね、完全に。

ええと、そう、その男の子がそうメッセージくれたことにより(それだけではもちろんないが)、

ぼくが、この人生のよろこびと感じることは「コミュニケーション」にあるのだな、

ということを強く感じたのであります。

 

一方的でもけっこう平気なんだけど、

たとえばこのブログとかぼくとSさんとあと数名くらいしか読んでいないんじゃ?

って思ってしまうけど、でも、別にそれはそれとして投稿に支障はない。好きでやっている。

だた、反応があると、格段にやる気がでるし、血が喜ぶって感覚。

自分が肯定されたとか、そういうのともまた違うんだけど、

誰かのなにかの足しになったかもしれないことが嬉しいんだろう。

 

自分勝手に生きているし、わからないが死ぬまで自分勝手に生きていく気がしてきたこの頃だけど、

ぼくにだって、誰かや社会の役に立ちたいという気持ちはあるのだった。

ただ、そうした役割よりも自分が大事っていうだけ。役割<自分

 

無理して人や社会に尽くしても表面的には「マイトレジャー」みたいに言えるかもしれないけど、

絶対そんなことは長く続かない。ストレスが粉雪のように降り積もっていつしか、

もう嫌だ! とすべてを捨て去ろうとしてしまうだろう。

というか、そうしてぼくはいろんなことを投げ出してきた(恋人と別れたり、仕事をやめたり)。

 

って、本の紹介をしようと思っていたのだった!

 

「山頂の聖人」という本は、小学生でも読めそうなくらいに平易だけど、

わからないが、お坊さんとかが読んでも気づきや共感が多々あるだろう、みたいな本。

簡潔で、1話が数ページながら、抽象的でもなく、わかりやすい。

 

実はというか、きのう久々にキャンバスに絵を描いたのですが、

振り返ってみたら、約半年ぶりの絵だった(紙にペンとかでパっと描くのは描いてたけど)。

今年はじめての絵だった。

 

ここ数ヶ月は、ロングスパンのライターの仕事に始まり、

コロナ自粛生活とつづき(5月の展示は延期。1年後の展示はそのお店が閉店となった)、

どうも意識が絵よりも作文に基本的に向いているようで、

小説を書いてみたいなとか思っているのであります。

いえ、実際、友だちとメールに交換日記みたいにして短い小説をバトンし合う(?)ってことを4月に始めて、

だから、ほぼ毎日短い小説を書いているのですが、

書いていて、小説を書くって行為というか、回路の面白みみたいなものを感じ始めているのである。

 

うまく言えないけれど、

目に見えない思いとか考えという四次元エリアに、書くことでつながり、

そうしてアクセスするところにある「何か」。エネルギーみたいなものを、

言葉というものに落とし込む行為というものをぼくは好きなのだな、というか。

なんだか、書きながら自分の中に潜んでいた感情みたいなものが湧き上がる感じも、

ふしぎだし、インタレスティングやなー、と思う。

 

そう、ぼくが小説を書くとき、この本が理想のひとつだな、って思うのです。以下Instagramの投稿の一部。

 

この本を思うとき、井上ひさしさんの「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをおもしろく」という言葉が浮かぶ。「山頂の聖人」は、まさにそんなお話。疲れてしまったときは布団にもぐってペラペラ読む。すると、見たことも行ったこともない聖人のいる山にいざなわれ、心が気持ちよくなっていく。ああ、そうだった、人間はいろいろだし人生にはいろいろあるし、それでいいんだった。って起きあがる元気が戻ってくる。

 

最後に、パっと「山頂の聖人」をひらくことにする。

 

聖人さま、お言葉を返すようでございますが、今までお話ししましたように、あの女はすでにわたしくしをひどく傷つけているのでございます。聖人さまは何かお考え違いをなさっているのではないでしょうか」

 

「だが、わしの目には、あなたはどこも傷つけられていないし、自由で何も問題がないように見えるがの。あなたはこれまでの体験を通して真実の友というものを見つけなさったにちがいない」

 

「あ、ええ。まあ、そうではございますが」

 

「あなたの人生は虚飾をはがされたおかげで、残された部分は純金のように輝いておる。あなたは健康で頭が良く、強い。とても幸運なお人だ」

 

115ページ 第23章「いじめられる女」より

 


早朝パンケーキ

 

寝しなに、マドモアゼル愛先生のこの動画をみたら、どこかが覚醒しちゃったようで眠れず。

ミッチーも眠れない様子を感じたので背中に声をかけてみたところ、Yes。

ふたりして眠れないのならば、いっそ起きてみない?

起きて、なにするの?

たのしいこと......。

たのしいことって?

パンケーキ焼いたりとか、朝マック行ってみたりとか、あ、朝マックやってないのかな。

などと、横になりながらちょっと会話をつづけ、本当におきてみた。

そして彼は、無言でキッチンでゴソゴソ始め、本当にパンケーキをいま焼いている!

 

余談が過ぎましたが、この動画、とても面白いです。

面白いというのはゲラゲラというのではなく、インタレスティング。

 

ただの、ひとつの情報ですが、個人的には点と点が線になったり、

人間の可能性というか、人間にはまだまだ未開の力がたくさんあるのではないか、と想像が膨らみワクワクもした。

 

世界を怖がってはつまらないな、と思う。

いや、不安とかはもちろんあるのが本音だけど、

せっかくこの時代に生まれてきたのだ。

このスーパー変容時代に生まれるというのは、ものすごい倍率で、

いま地球に生きている人たちは、ものすごいラッキーなのだとスピリチュアル界隈で聞いたことがある。

真偽は不明だけれど、ロマンティックなその仮説に踊ってみたいと思う朝。

 

パンケーキは、薄くって見事な円に焼けていて、すごい才能。

才能って、そういうものだ。

ささやかでも、それが自分ひとりだけでも幸せにするのなら、すばらしい才能。

 

 

ゲラゲラの面白い動画はこちら。

ウケる。ミッちゃんの顔ってすばらしいなあ。


妖精

 

先日、YouTube風呂をしていたさい、

わけもなくロームードだったわたしは、暗い歌を聴きたかった。

そこで目についた年をとってからのジョニ・ミッチェルを流した。

そうして、YouTubeからのほかの候補として彼女、マリア・マルダーが登場。

 

学生時代バイトしていた喫茶店は、ジャズ喫茶みたいなところだったけど、

選曲する人のセンスで、70年代のシンガーソングライターの歌も流れた。

三宅さんという唯一の社員の女性の選曲がぼくは好きで、

三宅さんチョイスのCDを何枚か買った。

マリア・マルダーもその一枚。

 

まさか動き歌う彼女の映像を観られる日がくるなんて、みじんも想像したことがなかった。

すごい世界だ。

 

初めて見たライブ映像の彼女は、それはもうかわいくてびっくり。妖精ですな。

CDのときより、ライブの演奏のほうが好きかもしれない。

 

このヒッピー感。フリーダムなエネルギーを動画から注入。

よかったらみなさんも、どうぞ。

 


6冊目

 

ぼくと精神世界というかスピリチュアル世界の付き合いはとても長い。

覚えているいちばん古いそうした世界の本は、たぶん小学5、6年生のときに買ってもらった、

スーパー能力が身につく本」というもの。

 

この本は文庫本よりも小さくて、子どものお遊びみたいな雰囲気だったけど、

今にして思えば、完全に「引き寄せの法則」みたいなことが書かれていた。

記憶力の乏しいぼくにしては超珍しく、そこの部分の内容だけ強く覚えている。

なぜかといえば、ぼくはその”引き寄せ”を実践していたから。

たしか、その手順は以下のようなものだった。

 

・思いつくままに自分の望みをノートに書き出す。

・願望のトップ10だかに関しては、望みを具体的に細かく挙げる。

・週に1度はその願望をチェックし、順番を入れ替える(その時の自分の望みを確認する)

・目をつぶって願望が叶っている様を思い描く。

・絵などに描いてみる。あるいは写真を切り抜く。

・願望が具体化されたイメージ写真(絵)を持ち歩き、繰り返し眺める(無意識下に浸透させる)

 

ね。まさに2010年代に大流行した「引き寄せ」そのものみたいですよね。

 

当時、自分の容姿に今よりもうんとコンプレックスを抱いていたぼくは、

恥ずかしい告白をしますと、

光GENJIの佐藤アツヒロの写真を理想として「明星」から切り抜いてもっていた気がする。

(べつに、とりわけ佐藤アツヒロが好きだった気がしないけれど、何かに憧れていたのだろう)

 

それ以降、しばしスピリチュアル本からは縁遠くなったのち、

20代の後半くらいに、自己啓発本からふたたび目に見えないロードに入り、

30歳で、今の彼、ミッチーと出会ったことにより、一気にその世界への意識が強まる。

 

というのもミッチーは、

それまでのゲイデビューから5年間くらいの恋愛で得ていた手応えみたいなものがまるで得られず、

当時のぼくには、不可解極まりなく、けれど抗い難く惹かれてしまい、発狂しそうだった。

恋愛マニュアルみたいなことにはこの人生で一度も執心したことはないぼくは、

彼と両想いになるには、自分の精神世界と向き合うしか術はないと思い込み、

スピリチュアル本にならい、ノートに自分の内面の声をひたすら書き出し客観化したりしていた。

その甲斐あってか、どうにか彼と付き合うこととなり(付き合ってからも相当悩んだけど)、今に至る。

 

前置きがスーパー長くなりましたが、

30歳からの10数年、少なくとも何十冊、下手すると3桁のそうした本を手にしてきた中で、

たった一冊だけ選ぶとしたら、ぼくはこの「あるがままに生きる」を選ぶ。

 

ぼくの傾向として、難解な言葉は苦手で、読解力の問題なのか、

いってみれば中学生でも読めて理解出来るくらい本がありがたい。

知りたい、興味のあるジャンルは、しかし精神世界なわけで、

ゆえに、言語化がむつかしいものがめちゃくちゃ噛み砕かれ、

平易に綴られているという貴重な本を、とても大事にしている。

 

「あるがままに生きる」は、著者の足立幸子さんの講演を書籍化したものらしく、

難しい言い回しとかは出てこないし、お話を聞くように、さらさらと読める。

そして、とても実際的というか、実践的なことが書かれている。

 

ぼくは思うのですが、

もしも神様という存在が人間に何かを伝えようとするのなら、

決して難解な言葉を使わないのではないか、と。

人を選ぶような形では伝えないのではないか、と。

いや、もちろんどのような形であれ、全人類が等しく理解できるものなどおそらくない。

だから、すべては選ばれた人のみが受けとるメッセージなのだとは思う。

でも、思う。

本当に大切なことは、きっと複雑なはずがない。とてもシンプルなことに違いないだろう、と。

 

以下は、Instagramのときの文。

 

30代から10数年の読書のほとんどは、スピリチュアルというか精神世界の本という私。とにかくそういうのが好きみたい。たくさん買ってはたくさんリリースしてきたけど、一度も手放そうと思ったことのないぼくの中でのマスターピース。

どう生きたら? などと、性懲りもなく人生に"正解"を求めてモヤモヤするときに、結局たどりつくのがこの言葉、「あるがままに生きる」。では「あるがまま」って? という疑問には、生きていきながらその都度自分なりの答え(応え)を出せばいいのかな、って今日は思う。

著者の足立幸子さんは本によると、1993年6月に故郷のプレアデス・タイゲタ星に帰星されたとのこと。そんな足立さんの動くさまをどうしても見てみたく、講演DVDを買ったところ、早口で軽くって、なんだか平野レミさんみたいだった。そうして、ますますこの本が好きになりました。

 

 

 


5冊目

 

この小説のことは何も知らずに手に取った。

たまたま入った目黒の古本屋にて手に取った。

本を買うことは好きだけれど、それを読むのは別問題。

家に持ち帰ったはいいけれど、まったく読みたいと思えない本というのもある。

よく吟味したはずなのに、

それを購入したときの自分は別人というくらいにひとかけらも読みたくないことがあるというのは、

実にふしぎなだな、とよく思う。

 

それを読む自分は「理想のわたし」で、現実のわたしとは乖離しているのかもしれない。

この本も、読むまでには時間がかかった。

読まないまま手放してしまうことも考えた。

でも、ある日のある瞬間に読み始め、最初の数時間はまるでハマらないながらも、

とにかく読み進めたある時に、カチっとピースが合ったかのように、

突如、「面白い!」となった珍しい一冊。

 

イスラムの変わった話なのだけど、

変わった登場人物たちの、マイノリティ具合というのか、

置かれている環境みたいなものに自分をみたことによって、物語の意味が一変したのだった。

そこからは夢中。

そして、読み終わるのも惜しいとさえ思うものとなり、

読み終わってからおそらく7、8年経った今もこの小説世界のことがこびりついている。

 

以下はInstagramに投稿したときの文章。

 

この本を説明なしで紹介することは難しいので、帯の言葉を書いてみる。

「禁断のイスラム文学 遂にヴェールを脱ぐ! 特殊能力をもつ青年、抑圧された人妻、反社会的に生きる夫婦...... 現代シリアを舞台に、若者たちの愛とセックスを描く衝撃のデビュー作」

ぼくにとってこの本は、自分がゲイとして生まれたことの意味を考えるひとつのきっかけとなった。命を狙われながらも自分たちの信念を貫き表現活動をする夫婦や、夫婦の作品に光を見いだす青年。そして、このような"禁断"の小説を発表した作者の熱にふれ、ハッとした。ぼくも、勇気をもって自分を表現していきたい! と思った。内容はすっかり忘れてしまったけれど、受けた感銘みたいなものは今も残る。本という物体は、それ自体がメッセージを放っているな、と「月」をわが本棚で見かけるとよく思う。

 


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ひろおくんが、よかったから、ってシェアしてくれた動画。


ああ、

友だち、

いまどこにいるのかわからない友だち、

友だちのひろおくんが、フェイスブックから20秒くらいの動画をおくってくれた。

のむらさーん、元気ー?

ってにこやかな彼の姿をみて、よくわからないんだけど泣きそうになった。

涙はでていないけど、ぼくのどこかは泣いた。

 

すごいことだな。

動画ってぼくには恥ずかしくてハードルが高いことだけど、

初めて動画でなにかやってみたくなった。

ああ、びっくりした。

人の存在っていうか、人間のはなつエネルギーってすっごいんだな。

 

自分にこんなにやわらかい部分がちゃんとあることにも感動している。


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