個展のこと

こんにちは。

今日も寒いですね。いや、寒い。

 

無事に新宿「J」での展示がはじまりまして、

これが終わると、もう今年も終わるということに、

なんだかびっくりしてしまう今日この頃です。

 

展示の案内に、いつ在廊するかはブログに書きます、などと言っておきながら、

今週は、自分の中ではなかなかに忙しくって、

ブログをひらく余裕がなかった。

 

ええと、来週は、10日か11日か、あるいは両日かに在廊しようと思っています。

ぼくはジャズにまるで詳しくないのですが、

Jのスケジュールを見ていて、10日と11日のライブに惹かれていて、

とくに10日は、個人的におもしろそうだなー、と思うのであります。

http://www.jazzspot-j.com/schedule_s.html

 

来週の15日に、ライターの仕事での出張があって、

それが終わると、気分的にかなり楽になれるので、

16日以降、28日の最終日に向けては、たくさん在廊しようと思っています。

なので、もし、「この日ならいけるよ!」って方ありましたら、

ご一報いただけましたら、行くようにします。

 

どうぞどうぞよろしくお願いいたします!

 

あ、そうだ。今回の展示に、昨年初めてライブペインティングというものをやったのですが、

そのときに描いた大きい絵にあらたな色などを重ねて、

あたらしい絵として、飾っています。

タイトルを「Golden Gate ー光の扉ー」と名付けました。

あのライブペインティングに参加してくださった方には、

とくに見ていただきたいなー、なんて思うのだったら、

いらしてくれた方々に一報入れなさいな、わたし......。


個展「パルス」のご案内

 

 

今日は朝の4時半とかに目が覚めてしまって布団でうだうだして、

二度寝だってオッケーだよ、と自分に言ってみたのだけど、どうしてだか眠れない。

目が冴え冴えしていて、起きることにした。アトリエへ行くことにした。

 

久しぶりに暗い朝に絵と向き合って、

静かな朝に、なんだかいろいろとクリアになった。

 

ぼくは何をしているのかというと、絵を描くそのまっさらな場所に、

自由であることを刻みたいんだ、と思った。

 

現実世界の人間関係には、

どうやったって遠慮とか気遣いとか、顔色空気を読むみたいなことをぼくはしてしまう。

他者ありきの私、となってしまう。

それはそれで便利というか、そうした性質だからこそ、

人との大きなトラブルのあまりない人生を生きているのだろうとは思う。

だけど、つねに人ありきな自分だと、ときどきものすごく窮屈をおぼえる。

 

ただひとつだけでも、思いきり自分の好きなように勝手放題、自由にふるまえる場所がほしい。

それが、ぼくにとってはまっさらなキャンバスなのだった。

そこでは、ひとつも遠慮することなく、どこまでもふざけていい、遊んでいい、自分を発揮していい!

 

今朝、そんな「初期衝動」みたいなものを思い出した。

やりたいようにやった。

 

ぼくのこの度の「パルス」、内なる信号は、

自由でありなさい。自由でいたいと思うのは自由です。あなたは自由です。

と繰り返しサインを送ってきたのだろうと思った。

 

今年最後の作品展。お時間ありましたら、ぜひ、いらしてください。


個展前日誌

 

「アタシ問答」個展前日誌

 

 久しぶりにやってみている。なぜだろう、またやりたくなった。言葉に頼っているのかもしれない。頼っている? うん、よくわからないけど、とにかく言葉にして吐き出してみたい気持ちになっている朝。9時45分。治療したばかりの歯が痛む。痛むというかしみる。冷たいものだけでなく温かいものでもしみることに沈む。きのうと今日と、気持ちが沈んでしまうのは、歯のことが大きいのだろうと思った。さきほど、歯医者さんにクレームに近い電話をかけようかと、メラメラした感情があることに気づき、ひとまず、気休めだろうけれどネット検索。「治療した歯が痛む」と入力すると、その原因が歯医者さん側の情報として出てきた。なんでも、治療したばかりの歯は神経過敏になっていることがあるのだそう。なんだ、そういうことか、と即座にすこし気持ちがやらわぐ。そういうことってある。得体の知れない何かというのは不安にさせる。

 

 久しぶりにこうして書いてみて、あの頃はよくもまあ毎日書くことが出てきたなあ、と感心している。今日は、とくに書きたいことも意識としてはまるでないのだけど、ないのだからこそやってみている。こうして考えずにタイプしていくことで、自分の目下の心もとなさを探ってみている。

 

 ミュウちゃんが寝室でひとりクルクルとごく小さい場所を回っている。何をしているのだろうか、相変わらずよくわからない。よくわからないけれど、それは今に始まったことではないから慣れてしまった。そういうこともある。得体の知れないものながら、それをそういうものとみなすと、慣れてしまい、特別の感想をもたなくなるということが。絵を描くということも、ぼくにはいろいろな時期があるよう。4年前と今では何かが変わったように感じている。来月、というか、もうあと一週間くらいで絵を仕上げないといけない段階になっているというのに、今日のぼくはまるで焦っていない。いや、焦っていないと思いたいだけで本当は焦っているのだと、今感じた。焦っているからこそ、焦っているのに思うように動けないことに焦っている。

 

 きのうは午後、数時間アトリエにて絵と向き合う。「向き合う」って言葉がやはりいちばんフィットする。しっくりくる。「描く」という能動というか、自分の手中にある感じがあまりしない。手が勝手に動くみたいな、こっくりさん的なことではないけれど、でも、自分の意思だけで描こうと思っても、迷路に入るような、迷路に迷い途方にくれるような感覚におそわれ、その状態というのは精神的にも途方にくれるというか、ちょっと怖くなってしまう。描けないのに描こうとしているうちに、どんどんと不安や恐れが大きくなってくるのだった。ということで、とりあえず、絵とは毎日向き合うということだけを、とにかくしているこの頃。きのうは、何をしたのだっけ? あ、久しぶりに漆喰を取り出してみて、これまでの絵の何枚かに塗ってみたのだった。塗っていて、思ったのは、自分は、以前やったことを繰り返すことに抵抗を感じるということ。同じスタイルを何度も繰り返して熟練、洗練させたいという願望があまりないように思った。だけども、この自問自答をまた始めてみた。かつてとまったく同じスタイルのことを。なんだろうな、でも、時期というのはあるのだろうな。春夏秋冬のように、その外側の変化によって、たとえば草木が枯れたり芽吹いたりと反応するように、ぼくも自分の理解を超えた何か、外側の要素から、ある周期で同じようなことを繰り返しているのかもしれない。

 

 しかし、まだ答えが出せない。案内状を作るか否か。つくりたい、明日にでもつくりはじめようとある夜までは思っていたのだけど、それに対して「ちょっと待った」というリアクションを人からもらったことにより、そこで立ち止まってしまった。その声には、一理あるというか、その言葉はぼくのどこかにたしかに響いたのだった。響かない言葉は、そのまま流れていくけれど、響いたものというのは、まるで種を植え付けられたように、それ以降も何度もリフレインし、だんだんとその存在感が大きくなったりする。ぼくは、ある型に、いつか自分が「そういうものだ」と決め込んだ形に、よく考えもせずハマっていたのかもしれない。個展をひらくときには、絶対的にできるだけ案内をする、宣伝をする、きてくださいと言う、ということを当たり前と思ってきた。だけど、彼女はそれを「当たり前ではない」というようなことを伝えてくれた。ぼくも、聞きながら、ぼくのどこかはそれに賛同していた。そう、宣伝をしなくてはならないのではなくって、したいからする、ということが自然というものなのだろう。しなくてはならない、という誰の言葉かわからない圧力によってそれをするときに、それは義務となる。働かなくてはいけない、税金をおさめなくてはならない、親孝行をしなくてはダメ、人には親切に優しくするべき。などなど、自分のどこかはこのぼくにたくさんのことを日々求めている。ぼくは、それを、その提案を、鵜呑みにする。「そういうものだ」と、検証もせずに従うことを当たり前として、行動に移そうとする。それも間違ってはいないのだろうけれど、何かがおかしいのかもしれない。そのことによって、自分がいつの間にか苦しくなっているということがある。展示の案内状の作成も、もしかしたら、そのひとつなのかもしれない、と考え出したら、手が止まってしまった。そして、今、ここにきて、このようにして自分と向き合うことをしてみている。してみているが、ただ文字だけが積み重なるばかりで、グルグルと同じ場所をそれこそミュウちゃんのように回っているだけなのかもしれない。どうだろうか。よくわからない。

 

 絵について、今、感じていることは何? ええと、絵を描くことはやはり不思議だということ。何が不思議なのかというと、よくわからないという部分。何を描きたいかが浮かぶこともあるけれど、その完成イメージみたいなものは、一瞬の光みたいなもので、流れ星が流れ落ちるわずかな時間に自分の願いを言葉にできないように、一瞬のひらめきは、一瞬で消え去ってゆく、それが何だったかが、過ぎ去ってしまうとよくわからない。でも、何かがあった、光っていたという記憶はある。その残像のようなものをたぐるように、でも、何をたぐりよせているのかはわからず、とりあえず、ともかく手を動かしてみる。手を動かし続けてみて、目の前の紙やらキャンバスやらの風景が変わっていくことを観察しながら、きっとそこに近づいているのだろう、と信じて、ただただ、手を動かしている。その一連のしていること、作業、プロセスというのは、やはり自分にとっては不思議なのだった。絵以外で、このようなことがぼくの日々、生活にはたぶんない。非常に独特で、ある意味ではスリリング、エキサイティングなことに思う。が、一方、締め切りというか、期日までに仕上げなくては、という責任感というのか、常識的な自分は、その謎のプロセスを怖がっている部分がある。大丈夫だろうか、これでいいのだろうか、うまくいくだろうか、と不安がる。でも、「うまくいく」というのは何だろうか? なにが正解なのだろうか。絵には、すくなくともぼくの描く絵には正解というものがないように感じる。目的地があってないようなものだからだ。バスキアの絵を、ネット越しに見ていて、すてきだなー、と思うけれど、あれはバスキアの絵。ぼくの絵ではない。バスキアのような絵を描こうとすることはできるし、がんばって研究やら研鑽やらを積めば、彼の絵に近づくことは不可能ではないだろうと思うけれど、それって何の意味があるのだろうか、と思う。バスキアが、バスキアだから、あの絵を描く。ぼくはぼくだから、ぼくの絵を描く。

 

 絵は、この度の展示に向けての絵は、自分の当初のイメージから、どんどんかけ離れている。お店には、ひと月前に展示のタイトルと説明と画像を送ることになっていて、「パルス」とタイトルを定め、それをもう伝えたが、タイトルを言葉として定着させ伝えた時点に感じていたイメージと、どんどん描きだした今では、なんだか、まるで違う方向にいっているような気が時々している。なんというか、当初は、もっとバー! と衝動的な、勢いまかせ、エネルギー! みたいな絵になっていくと感じていたのに、ぜんぜんそういう絵が出てこない。むしろ、そろりそろりと手を動かして、水をたっぷりふくませて、そのにじみやらにうっとりとしてみたり、なんだか、どんどん繊細な作業をしたがっている。かと思えば、きのうの後半は、まったくよくわからない、ピンク色の四角をキャンバスに描き加えていて、手を動かしながら、いちおう昨夜時点での完成を眺めながら、よくわからないなあ、と思った。いったい、これが何なのか、言葉にならない。

 

 でも、それでいいのだということを、今回何度も思っている、感じている、考えている。言葉にならなくていいのだということを。言葉にならないけれど、物体としてそこに存在できてしまうことが絵でもあるのだということを、思う。あ、そうだ。そう、先日の、クイア・トウキョウ・フェアーでの平野さんのライブを体感して、感じたことをちゃんと言葉にしておこう。忘れぬうち。あたたかいうちに。彼の歌を生で聴いたのは初めてで、その夜は、ギター1本の弾き語りをしていた。ちいさい空間には、彼の歌声とギターだけが響いていて、ほとんど知らない歌を、はじめてのその人の声を、ムードを、本人をあまりよく見えない場所から眺めていて、なんだかとても面白かった。まったく知らないその人のことを、とてもよく知っているような感覚になったのだった。たとえば、その言葉の選び方、ビブラートというのか、声の出し方とか、音の震わせ方。声だけでなく、ギターも同様で、その、音と、音の出ていない間と、どれほどの時間どのようなトーンで、それらを響かせているかなど、そのすべてが、その彼、平野くんそのものなのだなあ、と感じた。それこそが、アートというのか、自己表現というものなのだろうな、と思った。誰もが誰かにはなれず、自分は自分にしかなれない。ということは「なる」ということは、本当の意味では無理なことで、ただただ、「ある」だけなのだ。その「ある」私というのは、だから、誰も本当には共感はできなくて、それぞれが自分なりに、自分の世界での体感をして、意味づけのようなものをして、瞬間ごとに記憶として定着をさせて、積み重ねて、生きている。表現というのは、そのおすそわけのようなものかもしれない。彼のことは、ほとんど何も知らないが、彼がどのような感覚の持ち主なのか、なにを気持ち良く感じているのか、なにを美しいと思っているのかが、歌を聴きながら、言葉にはできないことだけれど、それこそ体感的に、その間じゅうは、わかるというか、伝わるというのか、共感というのか、共鳴、同調していたように思う。それは、その人の世界の中に、すっぽりと包まれるような、なんともいえない時間だった。ただ、「包まれた」。そういう感じ。

 

 絵も、絵のある風景、展示のスペースというのも、それと近いことが起こるのかもしれない。ぼくを通してあらわれたものを、内側にあったのか、どこかからやってきた通過したものなのかはひとまず、とにかく、紙やらに定着した色や線や形が、絵というものとなり、そこに存在していることで、なんとなく、ぼくという人をそこに感じることとなるのかもしれない。それが心地よい人もいれば、心地よくない人もいて、それは、波動の問題というか、波長が合うか合わないかというだけの話で、それ自体の良し悪しというものではないのだろうと思う。でも、おそらく、バスキアがバスキアの絵を描くように、ぼくがぼくの絵を描けているのか、何かになろうとしている絵なのかという意味での良し悪しみたいなものはあるのかもしれない。「なんか気持ち悪い」というのは、作品のモチーフとか色味とかそういうものではなくて、それを放った人の状態が気持ち悪いということかもしれない。格好をつけている人が表現しているのは「格好良い」ではなくて「格好をつけている」ということなのだ、ということ。見る人が見れば、それこそX線写真のように、すべて見通されてしまうのだろう。

 

 じゃあ、どうすればいいの? どうすればいいのだろうか。それは、ありのままというか、自然にまかせていればいいのかもしれない。そう、別に、「格好をつけている」ということがダメなわけでもない。格好をつけているという自分に気づいていて、それをしているのだったら、きっと、それを指摘されたところで、恥ずかしいこともないだろう。自分の内心というか、下心というか、意図みたいなものを、自分がどこまで把握しているのか。自分が、だから、出てきた“作品”と、どこまで真摯に向き合っているか、ということが大事なのかもしれない。というか、絵を描いたり歌を歌ったり、表現みたいなことを外に向けて放つことの意味、意義として、それをすることを通して、自分というもの、それは目を背けたいようなたとえばダサい自分、すてきなものを模倣して評価されたい自分、イケてると思われたい自分などなど、自分を知る。自分を動かしている力を知ることができやすい、ということがポイントなのかもしれない。利点というか。そうして、それを見た人もまた、ざわざわしてみたり、気持ち悪いなとか感じてみたり、すてきと憧れてみたりなどの反応から、自分自身を知る機会となり得る点が、アートというものの、すばらしい力なのかもしれない。

 

 なんだか、書き出して、吐き出してみたら、すこしだけすっきりしてきた。今日も絵と向き合う活力がわきでてきたような感じがする。そして、何を今更だけど、やはり、この、とにかくカタカタとキーボードを叩き、出るにまかせて言葉をタイプする作業の気持ちが良いこと。すっきりする。今回の個展に向けての試みとして、しばらくこの自問自答も制作のひとつとして続けてみようか。それをしてみたら、たとえば絵のタイトルとか値段とかも、いつもよりもスムーズに出てくるかもしれない。今年最後の個展に、こうした実験を取り入れてみるこの流れは、きっと、すばらしくライトタイムなのだろう。そう思うことにする。

 

 朝。といってもお昼に近い。眠い。いや、眠くはないのだけど、気持ちとしては眠いというか寝たい。寝てしまいたい。とくになにか嫌なことが今日に待っているのではないけれど、なんとも前向きに活動する意欲がわいてこない。どうしてだろうか。どうしてか、と考えたがる自分にも、なんというか辟易。そういう朝。おはようございます。外は雨。だいたい雨だと気分がローになることが常なのだけど、今日は、なんだかフィット。とても心地よく雨の音を感じている。ザーザー降ってくれたっていい。なにせ外出の予定はないのだから。家から数十歩のアトリエは、この雨だとまた雨漏りをしているのかもしれない。うっかり、今日が雨だなどと知らずに、いちばん雨漏りの激しい風呂場に1枚絵を乾かそうと置いてしまったけれど、もう濡れている可能性がある。でも、それも面白いかと思う自分がいる。なんだか、本当に適当な人間。

 

 書くことがないと思っていたし、べつに書きたくもなかったけれど、「個展前日誌」と名付けたのにさっそく昨日はここをスルーしたことを少し後ろめたく思い、とにかく今日はここを開いて、タイプをしてみようとしての今。書いているうちに、このカタカタ作業が楽しいというか、心地よく感じてきて嬉しい。感情というのか、何かが動いたことがうれしい。生きているって感じがする。

 

 凪。止まってしまった。なにも出てこない。

 

 粘っている。うそ。そういうことではなくて、やりたいから、また、まだ書いているだけ。「結果にこだわることなかれ」という言葉が今、ふいに浮かんだので書いてみる。どうしたメッセージ? うん、そう、昨夜ミッチーが録画してあったテレビ番組を見始め、それは「情熱大陸」で、最初は下町の洋食屋の兄弟の回だった。今、その兄弟というか家族のドキュメンタリーを回想して浮かぶのは、弟さんの顔と弟さんの息子の顔がすごく似ていたこと。そして弟さんの父と母の顔も似ていたこと。顔が似ている。とても特徴のあるように感じる顔が似ていることがとても印象に残った私。顔。顔の似ている親子には「血」って思った。そして、明日久しぶりに実家へ行き、兄夫婦も一緒にご飯を食べることもあり、わが一家の顔は似ているのだろうかなどと思った。なんというか、血は争えないとかいうけれど、選んでいるようで選んでいないというか、選べないというか、その家に生まれた時点で顔や体つきや、性格や才能などかなりの枠で“設定”は決まっているのかもしれないな。そして、その設定は、おそらく、本当の意味では自分で選んできているのではないか、などとも思う。根拠はないけれど、なんとなく、そのように感じる。ぼくは、顕在意識のぼくは、そんなことを望んでいないけれど(経済的な状況)、でも、現在の、近年のこのような暮らしをある自分はうんと前から知っていたような気がする。それを「思考は現実化する」というのかもしれないけれど、卵が先か鶏が先か、みたいな話のようにぼくは思う。「そうなっているから、そう思考する」ということかもしれない、と思う。なんでこんなことを考えているのだろう? あ、そう、「結果にこだわらない」という話からだった。この「結果」というワードは、別の「情熱大陸」の人、美術家という肩書きの、ニューヨークで大変活躍をされている絵を描く同じ年の少しだけラッキー池田に似ている、ちょっとセクシーな男性が、「結果を出す」という言葉を密着中にカメラに向けて放っていたことが印象に残ったことから出てきているのだろう。名前を思い出せない、“マツさん”は、10人くらいアシスタントのような人を雇い、毎朝9時から朝礼をしていて、だけど一人の時間も必要だから7時半には出社して、そこでビジネス書やちょっとした自己啓発書を主に読んでいるようだった(アート関係の本よりビジネス書が多いと本人も言っていた)。画面の彼を眺めていて、どうでもいい視点かもしれないが、ずっと、「同じ年には思えない」と思っていた。1976年にマツさんもぼくも生まれ、そして生きてきて、でも、彼とぼくとではいちおう、絵を描くということに目下の貴重な時間という命の一部を注ぐ生き方をしているわけだけど、まるでいろいろと違いそうだ、と感じながら見ていた。接点があるようでまるでないような気がしてならなかった。少なくともマツさんはぼくに興味を持つことはないのではないかな、とか思った。昔から、そういうところが自分にはある。勝手に想像して、妄想して、勝手にふられたようなそういう謎の感覚。いつか青柳に、高校生くらいの時だっただろうか、「野村は木村拓哉に自分が相手にされなさそうで嫌いなのかと思ってた」というようなことを言われ、心をだいぶ見透かされているのだと恥ずかしくなったことを今思い出した。木村拓哉を嫌いと言っていたのかな、あの頃の自分は。だとしたら、それは、好きって意味の「嫌い」だったのだろう。

 

 今日は、どうも、何を書いているのか自分でもよくわからない。とっちらかっている。そういう状態なのかしら、太陽が蠍座にある今年最後の日。明日からは射手座へ移動。ぼくはアセンダントが射手座だから、明日からなにかしら活性化していけるかもしれない。そうだといい。この、ローな感じがつづくとしんどい。


冊子つくりました

 

11月16日、17日に行われる「QUEER TOKYO FAIR」という、

セクシュアリティ、ジェンダー、フェミニズムなどをテーマにした出版物やアートを紹介する

クィアカルチャー・フェスティバルに参加させてもらうことになりました。

といっても在廊的なことはなく、写真の冊子「アタシ問答」を12冊つくり、本日郵送にて納品し、完了。

 

とはいえ、個人的にこのフェスティバルにとても興味があるので、

日曜日の夕方に友人と行ってみる予定。

 

台東区竜泉という土地にあるPURX TOKYOというカフェで行われるそうです。

最寄駅は入谷らしい。

 

ちなみに冊子は、

ほぼ毎朝パソコンをひらき、

その時に浮かんだ言葉を自分の”書記”のような感覚でひたすらタイプしまくった自問自答集で、

かれこれ8年近く前の作品です。

 

今とは微妙にちがう考えなどがありながらも、

野村浩平という人のエッセンスが濃縮された文集かもなあ、と思った。

他人の胸の内を知ることで、誰かの自分を知るきっかけ、機会となったら最高だなあ、と思う。


11/10 自問自答

なにが怖い?

自分にできるだろうか、ってこと。

でも、考えてみて。

これまで、できなかったことはある?

それに、もしできなかった、失敗したことがあったとして、その失敗は、本当に失敗だった?

もしもその”失敗”がなかったらもっと深刻な”失敗”をうんでいたかもしれないとは思わない?

それに、失敗って何?

失敗の反対は成功?

では何が、これまでの人生で本当に成功した?

外の世界を見て、失敗のない人生ってある?

成功している人って誰?

その成功している人の人生には失敗がなかったと思う?

その人の人生の何を本当に知っているといえる?

この一人の人間が、人生のすべてを今この瞬間に把握できるもの?

誰がそのような視点をもっているといえる?

たとえば失敗は、失敗を恐れて、何も挑戦しないことではない?


11/10 自問自答

 

不安は、未知への不安。

けれど、すべては起こるように起きている。

ただそれだけのことかもしれない。

 

あるいはすべては未知、未確定の、オール自由ということかもしれない。

だけど、そのどちらが正しいか、はたまたその両方であるという矛盾。

また、どちらも正しくはない可能性。

そのように、ぼくにはこの世の、人生の真実が、確信的にわからない。

ならば、自分が生きやすい考えを当座の真実とすればよいのではないか。

というか、そうとしか、いえない。

 

大丈夫。

どうせ、自分には人生のすべてをコントロールできない。

祈ることはできる。願うことはできる。求めることもできる。

けれど、それをしたからといって、すべてがすべて自分の思い通りになることはないのだろう。

もしも、すべてが単純に、自分の思い通りに、コントロール下にあるとしたら人生はハッピーなのだろうか。

 

1億円がポーンとどうしてだか手に入ったとして、

避けたいことはすべて避け、世捨て人のように家にひきこもって、

とりあえずの安全、安心を得たとして、イコールそれがハッピーといえるだろうか。

 

避けたいことは、では、何か?

恐いこと、恐れを感じること。

人との関わりは、恐いことではあるけれど、よろこびをもたらすものではないか?

 

恐いことは、未知のこと。

どうなるのかがわからないことすべて。

たとえば旅だって、ぼくは恐れている。行きたいなんて思わない。

ワクワクたのしいこと、よろこびもあるかもしれないが、

それは行ってみないとわからない。

行ってみて、結果、そのような時間、瞬間があった。そういうもの。

家にひきこもり、不確定な未知を避ける人生には、思わぬよろこびがとても少ないかもしれない。

そして、おそらくたいていの人生には、未知は決して避けられるものではないのだろう。

誰だって、何かしら「最初」の瞬間はある。

未知とは、人生というものにもれなくセットされているものなのだろうと思う。

 

今、思うこと。未知は避けられない。

つまり未知を恐怖ととらえると、人生、毎日には恐怖しかない。

未知は恐怖とイコールではない。

そもそもことばがちがう。

未知と恐怖は同じことばではない。同じ意味ではない。

未知は未知。

未だ知ることのない次元。

 

毎日は、実はつねに新しくて、同じではない。

”同じ”とみなした方が心が楽、負担が少ないから、

それに気づかないように心なのか頭なのかが”同じ”とレッテル、ラベルを貼っているにすぎない。

でも、実際、ちがう。

気温も天気も気分も体調もすべて同じではない。

あたらしい今日にあたらしい私が生きている。

 

明日のことはわからない。生きていないかもしれない。

大切な誰かが死んでいるかもしれない。

それを恐れていてもしかたがない。

究極、人は死をおそらく避けられない。

すくなくとも不老不死の肉体をもつ人にお目にかかったことはない。

本などでも、肉体には期限があるというものしか目下は出合っていない。

 

恐怖を避けるのではなく、自分の恐怖を手なづける。

恐怖を見て見ぬふりをするのではなく、あることを認めて、

今しているように、それと向き合って、

恐怖している自分と向き合って、恐怖している自分を知って、恐怖する自分に居場所を与えて、

恐怖する自分とともに生きていけばいいのではないか。

 

おこることはおこるのだ。

それは、おこるべくしておこる。

やれることをやって、あとはリラックスをして、リラックスを自分に与えて生きる。

 

自分を信じる。

自分がこの人生の主なのだから、

自分にとっての真実、このぼくの人生においての本当に本当の真実は、

もしかすると自分の中にしかないのではないか。

他の人の発するものはすべて、その人の人生において有効なもの。

主人公がちがうのだから、その人それぞれによって、有効なものは異なっていてもおかしくはない。

むしろそのほうが自然かもしれない。

 


お知らせ

 

先日は3泊4日で北京へいってきました。

また、くわしいことはあらためて書きたいのですが、

ぼくがいつか描いた子どもの落書きみたいな絵を目にとめてくださったJumboさんより声をかけていただき、

その絵が、すてきなシャツとなりました。

北京へは、そのブランドのファッションショーにお招きいただき行ってきました。

sans titre  http://www.sanstitrestudio.com

Jumbo Tsui  https://www.jumbophotographe.com

 

 

それから、この夏に友人と何度もLINE電話を重ねながらいっしょに星を読み、

2020年の手帳「おいせさん手帳2020」にて、一部の原稿の執筆を担当させてもらいました。

友人とは、占星術講座で出会い、講座が終わる頃に一気に仲良くなり、

時間ができたら電話して、あれこれ話し合うふしぎすぎる関係になりました。

彼女と「いつか何かをいっしょにできたらいいなあ」なんてメールに書いた数時間後に、

この手帳の依頼があり、めでたく先日、手帳が完成した模様。

ぼくたちは2人で手分けをして、ぜんぶで40数日のことばを書きました。

おいせさん手帳2020 https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334940812

武士俣史子 vivir空間 https://viva-vivir.blogspot.com

 

 

来月、新宿のジャズのお店「J」さんにて、

約1年2ヶ月ぶり3度目の個展を開かせてもらいます。

どうしよう、まだ、ぜんぜん描けていない!

けれど、お店のHPには開催の1ヶ月前に情報をアップしなくてはならず、

もっかのところの絵と、展示の説明などを書かせてもらいました。

今回のタイトルは「パルス」としました。

新宿「J」 http://www.jazzspot-j.com/gallery.html?num=124&nen=2019&mon=12&check=1

 

 

北京から帰ってきたら友人よりインスタにメッセージ。

QUEER TOKYO FAIRという、

セクシュアリティ、ジェンダー、フェミニズムなどをテーマにした出版物やアートを紹介する

クィアカルチャー・フェスティバルに参加しませんか? と。

おもしろそう! 

30代の頃に日々の悶々を綴った「アタシ問答」という冊子を出そう!

と閃き、「Yes!」と返事をし、

いま、あと10日を切っていることにびっくりして、ビビっている。

11月16日、17日に、台東区のカフェ「PURX TOKYO」にて行われるみたい。

PURX TOKYO https://purx.tokyo

 

 

そしてそして、12月8日の午後に、

9月に2人展をさせてもらった奥渋谷は「maruta」にて、

ぼくの考える「そうじとは?」という、

掃除が苦手な人への意識改革的なワークショップをやらせてもらうことになりました。

日曜の午後に、集ってmarutaのおいしいお菓子をつまみつつ、自分と向き合ってみませんか?

こうしたWSは初めてということもあり、5名くらいを募ろうかと話しています。

ご興味わきましたら、ご一報ください。

 

 

そして、毎月1日にアップされる「セクシュアル・ヘルス通信」にて、

毎回、文章から着想を得た絵を添えさせていただいています。

黒澤優子さんのお話は、思わぬ展開をみせ、毎度お話が届くのをたのしみにしている私です。

セクシュアル・ヘルス通信 https://note.mu/bdaorganic/archives/2019

黒澤優子 http://blog.livedoor.jp/quko/

 

 

以上、書き出してみたらなかなか盛りだくさんだ。

けど、時間軸的には、夏のこともあり、先のこともあり、

まあ、いろいろある2019年みたいです。

 

これからの予定のことは、またあらためて書きたいとおもっています。

よろしくお願いします!

 

のむら


旅へ

ここのところ、とても落ち着かず、

しずかにイライラがたまっていた。

たよりにしている本に、今の自分へのメッセージをきくと、「怖れ」と出た。

 

怖れを感じなさい。怖れを感じなさい。

その本はいう。

 

本をいったんとじ、怖れを感じてみると、

あるわあるわ、怖れの山。

その怖れのすべては、未知への、未来へのものだった。

 

なーんだ、と瞬時に軽くなることはなかったけれど、

じんわり感じつづけていると、

こんなにもたくさんの怖れを見ないようにしていたら、それは落ち着かないし、

気分が浮き沈みするよなあ、と、冷静になれた。

 

怖れと、冷静な距離感が生まれ、すこし平常心になった夜に、お手製のカードをひいてみた。

「笑い」と出た。

 

先の見えない不安は、実は実態がない。

ああなったらどうしよう、こうなるかもしれない。

そうしたものは、すべて if。

 

どうせ未来は if なのだとしたら、if を笑って迎える心持ちでいたい。


時間

 

こんにちは。

最近、Instagramのほうで、

そこにあるストーリーという24時間で消えてしまう機能にて、文章を連日投稿しています。

ふと思いついてやってみたら、なんか面白くって、やっています。

もしご興味あったら、みてみてください。

nomurakouheinoって名前でやっています。

 

その文章は、自問自答というか、

とにかく毎日のようにパソコンをひらき、

その瞬間に思い浮かぶものをタイプしつづけた「アタシ問答」という作品で、

かれこれ今から7、8年前のものです。

 

 

文中に「35年間生きてきて」みたいなことが書かれていて、ちょっとドキっとした。

なんというか、当たり前なのだけど、自分にも35才があったのだなあ、ってドキっとした。

でも、別に、それ以外の感情はなかった。

若くていいなとか、戻りたいなとか、そうしたものは一切なくて、

その自分の潔さ、すてきだな、と思った。

 

なんで戻りたいとか思わないかというと、理由はもちろんひとつきりではないが、

文章を久しぶりに読み返していて、当時の自分と今の自分の違いをくっきりと感じたことが大きい。

似て非なるわたしなのだ。

 

当時の自分は、怒りやら悲しみやらがふつふつとそこにあって、毎日思いつめている感じがある。

今のぼくは、そういう感情があまりわいてこない。

いや、わいてくるのだけど、あの頃よりもタイムラグがなくわいてくるというか、

その場その時に「あ、自分は怒ってる」と気がつけるようになって、

だからか、そこまで怒りがあとをひかないし、ふりまわされない。悲しみも同様。

 

その変化を進化と自分は捉えているけど、べつに、

今がよくてあの頃がよくないということではない。

 

怒ったり悲しんだり、なにかに気づいてよろこんだりしている35才のぼくは、

43才のぼくからみると、エネルギッシュと感じる。

戻りたくはないし、うらやましくもないけど、「あなた、いいねえ」って思う。

 

そんなわけで、目下は、文章をアップする作業を通じて、

過去との時空をこえた旅というか、かつての自分と文通をしているようなこの頃。

いつかの自分の文章は、青くさく思えて恥ずかしいのだけど、

でも、今にはない魅力も感じる。

 

きっと、今日のこうした文章も50代となった自分がみたら、

青くさくて恥ずかしいな、と消したくなるけど、きっと消さないのだろう。


ありがとうございます

このブログは、なかなかアナログというか、

プラスアルファの料金を払えば、いろいろとわかるようだけど、

基本プランみたいなもののため、いろんなことがわからない。

けど、訪問数だけはわかる。

 

更新していないながらも、毎日やってきてくれる誰かがいるようで、

誠にありがとうございます!

 

 

ここのところぼくは、体調を崩していました。

発熱のない風邪みたいな感じで、

寝る、食べる、お風呂くらいしか、ほとんど動けなくって、

熱もないのに食べたら寝るしか選べない自分で、

そうした自分に罪悪感をおぼえたり、焦りを感じたり、

だけど、どう尋ねても「寝たい」しか応えがなくて、寝るしかなくて。

 

そんな状態のときに台風がやってきて、

そうしていられないと備えのために動き、

変な妄想にとりつかれないように、必死に今にとどまることを努め、

決壊寸前くらいの川のそばのこの家に、

猫をおいて避難などできず、いた。

 

本当に恐ろしくって、浅川の強烈なニュース映像は、

当日には見ることができなかった。

そうして、台風が、ひとまず過ぎ去り、

もっと、心身がだるくなって、さらに寝たきりのようになって過ごして数日。

ようやっと今日、もやが晴れたように動ける自分がかえってきた!

 

日々忙しいみなさんも、

平気と思っていてもひょっとすると心身がすこし疲れていることはあるかもしれません。

休めないのだとしたら、せめて1分間くらいでも目をつぶり、

神々しい絶対安全安心な光のシャワーを浴びまくる想像などをして、

目に見えないどこかを充電なさってくださいね。


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