アタシ問答

 ゆうべ、やることがなく、でも眠るには早く、テレビを見た。テレビで録画をしていた映画「海よりもまだ深く」をミッチーと観た。なんともいえない余韻の残る映画だった。ぼくは、たぶんこの映画が好きなのだろうと、見終わった後にすぐメモリーを消去したミッチーへの苛立ちのようなものにより感じた。でも、そうした感性が同じではないことを悲しく、イライラと思うことはほとんどなくなった。彼との違いに慣れた。違っていることが前提のように思えるようになった。これは成長だと思う。だって、違っていることを当然とした方が楽だもの。違わない、一緒だからこそ良いとすると、たぶん誰とも一緒になどいられない。そのようにようやく感じるようになった。かつては、「一緒」ということを当然と、あたりまえにそのように捉えるところがあり、人と違うことにいちいち傷つき、悲しくなった。ミッチーは、そのあたりをことごとくクラッシュしてくれるありがたい存在。出会ってから今日までの10数年間、毎日のようにぼくの当たり前を壊していく。ぜんぜん違う。でも、一緒にいる。一緒にいることのほうが自然なくらい一緒にいる。でも、あきない。彼をつまらない人と思う瞬間はあるけれど、あきることはない。彼は生きている。彼は自分を生きている。だからいつもどこか面白いし、興味深い。

 

 映画の何が良かったのか。ぼくは何を好きだったかをここに書くことで自分に教えてあげよう。是枝監督の顔がまず好き。これは映画と関係がない。本が好き。脚本が、言葉が好きだな、と彼の映画にふれるとよく思う。なんだか本当のような気がすることがよくある。ドラマの嘘みたいなセリフではなくて、日常の、あいまいで、時につまらない言葉。意味があるようなないような、だけどやっぱり意味のある言葉が発せられるのを見て、落ち着くのかもしれない。その世界が自然のように感じられるのかもしれない。今で2000文字と少し。ぼくの胸の内だかが2000文字になった。だから何だ? なんということもない。おしりくんが起きてきて、ぼくを一瞥し、今は水を飲んでいる。おしりくんがいる暮らし。彼は昨年末死にそうになった。いや、彼を殺してしまうところだった。ある日から食事をしなくなって、水も飲まなくなって、でも、大丈夫だろう、と気楽に構えているうち、どんどん衰弱していった。すぐに病院へ連れて行こうと思ったが、ミッチーもぼくも、病院に対して不信感のようなものがあったのだと思う、すぐには連れて行かなかった。去年、かみちゃんが死んだ。かみちゃんも同じように衰弱していって、だけど病院の言う通りに治療をし、入院をし、手術をしたけれど、手術から10日もしないうちに死んでしまった。あのときの絶望的な気持ちは、人生でもほかにないくらいの強烈さだった。もう二度とごめんだ、と思ったが、猫はほかにも何匹もいて、おそらくはぼくよりも早く死んでいくだろう。そのように思ったら、生きていくことをとてもとても怖いと感じた。逃げたいと思った。だけど逃げることもできない。生き地獄にいるような気分になったのは、去年の春。

 

 おしりくんは、生きている。おしりくんの命をこの世につなぎとめてくれたのは病院だった。結局、病院へ連れて行った。為すすべがなかったのだ、家庭では。だから、いろんな覚悟をして病院へ。すると、その夜から水を飲み始め、じょじょにじょじょに回復をし、今日に至る。本当に生きていてくれてうれしい。おしりくんが何をするわけではない。むしろこちらが世話をしている。糞尿の始末をし、食事を与え、撫でたりなどもし、毎日彼のために時間を費やしている。彼がすることといったら、グルグルと音を奏でることくらい。その音を、彼のよろこびのサインと捉え、ぼくもホッとしたりよろこんでいるわけだけど、それくらいのこと。でも、彼が生きていることがうれしい。映画に描かれていたのもそのようなことだったのかもしれないと今思った。なにがあるわけでもない。だけど生きている、生きていくことをつづけていく人々の姿。地味な毎日。そこにある地味だけどキラキラしたある瞬間。出来事の集積。いちばん印象に残っているセリフは、樹木希林が言った、「海よりも深く人を好きになったことが私はない。あなたもないでしょう?」みたいなセリフ。これは、録画をしてあるのだからまた見よう、また見たいと思ったけれど、ミッチーは消してしまった。消さないで、と言うことはできた。でも、消されるものは消されていいか、と思った。世の中にはいろんなツールがある。もしもどうしてももう一度観たくなったらそれを叶える方法はいくつもある。だから消されてもいいや、と思った。

 

 たしかに「海よりも深く人を愛する」経験などない。そして、今ないのだったらこの先もないような気がした。簡単に「愛する」などと言えるけれど、それを経験できる人はかぎられているのかもしれない。ありふれていて、だからたやすいことのように見えて、実はとても希少なことっていろいろとあるのだろう。なんだかそのセリフを聞いて、ぼくは自分がどこか他人事のように自分の人生を生きているのかもしれないと感じた。「いつか、ぼくの人生にも、よく歌に歌われているような“深い愛”を知る日がくるだろう、そのうちにきて、それを知ってからいつか死ぬのだろう」、そんな風にぼんやりと思っていた自分に気がついた。でも、そういうものではないのだろう。能動的に生きたとて、そうしたことが人生に起こるかどうかはわからない。まさに縁というものなのかもしれない。自分のあたりまえのように思っていることを客観できる機会とはありがたい。あの映画はぼくには、そのように働くものだったと思う。だから、ありがたい映画だった。


猛烈整理

 

パソコンが重くなってしまって、

作文しようにも頻繁にフリーズするようになってしまって、

わたしはイライラしてしまって、仕事もとどこおってしまって、不健康。

 

ということで、昨夜からパソコン内整理を猛然とやり始め、

いろんなものをパソコンの外へだし、いろんなものを捨てた。

すると、恩恵とばかりに、忘れていたすてきな写真があらわれた。

(作文もさくさくできるようになった!)

 

高校のクラスメイトだった鈴木陽介くんは、写真家になった。

2016年の春にひらいた展示にてひとりでボーっとしていたら彼がやってきて、

さっきの顔よかったよ、さっきの感じでやってみてと言い、パシャリ。

後日、このような写真が送られてきた。

 

自分じゃないみたいだと思った。

自分にこのような顔、このような雰囲気の瞬間があることに驚いたし、なんともうれしかった。

写真家の仕事というのは、こういうことでもあるのだな。

あたらしい顔を教えてくれる。

 

photo by 鈴木陽介 http://yosukesuzuki.jp


おいせさん手帳

 

去年の晩夏に取り組んだ「おいせさん手帳」を使い始めている。

といっても、手帳的な、先の予定を書くようなことは一切していない。

というのも、管理が必要なほどに先の予定がないということがある。

 

フリーランスで、決まった形で生きていない人間なのに、

たぶんこの10年くらいは手帳というものを使っていない。

劇団四季の壁掛けタイプのカレンダーを壁にかけず、それに予定のいっさいを書き込んでいる。

それだけで案外予定を忘れるみたいなこともなくやっていて、なかなかすごいことですね。

 

おいせさん手帳には毎日なにかしらの開運的なメッセージがあるのだけど、

基本的には2019年度版のものが踏襲されていて、

40数日書き換えが必要なものに関して、なぜだかぼくにその依頼があり、

だけど、ひとりでそれをやるイメージがわかず、

友人に声をかけて、ふたりで手分けをしてやった。

 

今年が始まって今日で14日目。ようやく、ぼくらが担当した日がやってきた。

今日のメッセージは、ぼくではなくて友人・ぶっしーの担当。

だけど、自分の書いた言葉のような気持ちにもほんのりなっている。

それくらい、電話にて打ち合わせに打ち合わせを重ねて執筆をしたのであります。

 

ぼくは、この手帳に毎夜その日のことやその瞬間の気持ちなどをすこしだけ綴ることにした。

それから毎朝、アストロダイスをふって、ダイスからのメッセージを1日のはじめに書いてみている。

 

この手帳は1年後、唯一無二、

世界中のどこにもないぼくだけのオリジナルの1冊になっている予定。

汚れやシワやシミなども含め、1年かけてひとつの作品作りをしているようで、

紙という、書籍という物体であることの良さを感じる。

 

おいせさん手帳のぼくが書いた日の初日はたしか1月17日。

その日に何を綴ったのかはあえて見ていない。

1月17日の自分がどのような気持ちでその文章をとらえるのか、非常にたのしみ。

このようなたのしみは、かつてないもので、

そうしたソーエキサイティングなものが、仕事という形でやってきたことを、

本当にありがたく思う今日なのであります。


目的と行動

 

今日はとても暖かくて気持ちよい朝だったので、
日光消毒ではないけれど、自分を日に当ててみよう、と思った。
それから少し体を動かしたいと思った。
でも、散歩に出かけるのはやや面倒。
ということで、目的をつくった。

目的は歩いて20分くらいの文具店。
そこにて、気に入りのペンの替え芯を手に入れようと浮かんだら、
一気にやる気が出て、即座に家を出た。

歩きながら、目的があると行動へのハードルが下がるなと思った。
そして、人生に明確な目的が見出せないからぼくは、
朝に目が覚めても二度寝をしたりして、
1日をぐずぐず過ごす日が多いのかもしれないと気づく。

人生の目的とは、生きる使命みたいなものだろうか?
人生の目的を、生きる使命を知りたい、と河原をぶらぶら歩く。
使命など浮かばない。浮かんでこない。

目的地に着き、買い物を済ませ、あたらしいペンを手にし、
また同じ河原を歩きながらの帰路、ふと思う。
人生の目的や使命というものは、自分で決めるしかないのかもと。

たとえ啓示を受けたとしても、
その啓示を「啓示」とみなすのは自分。
偉大なマスターに「あなたの使命はこれです」と告げられたとしても、
そのお告げを「真実」とみなし、
告げられた使命を「わが使命」と受け入れるのは私。
だから、使命は自分がそれと定めるしかないのかもしれない。

自分に最終決定権がある状態を「自由」と呼ぶのかもしれないが、
その不確かさは「不自由」とも言える。
それを「自由」とするか「不自由」とするかも私次第。

ただ、どのような人生にも出発点はあり、終着点はある。
終着点に向かう道すがらには瞬間ごとにたくさんの選択肢はあるだろうが、
たとえば生まれる家や環境は選べない。
生まれる前に自分がその生い立ちを決めているという説もあるけれど、
出発点は自分のチョイスではないとすると、
ある程度は生まれた瞬間から決められた道筋はあり、
出会う人や、起きる出来事などには避けられないものもあるのだろう。

「決められた中での与えられた自由」

それが真相だとすると、
決められた枠の中で生きて行くというそのことが、
人生のひとつの目的で、その人生を生き切ることが使命なのかもしれない。
その枠の中で自由になることに関しては、「自由」なのかも。

今日の目的のある散歩から手にしたことはそのようなことだった。


究極の安全

ふと「究極の安全」という言葉がグルグルしているかと思ったら、

「究極の安全とは、究極の信頼」というアイディアがダウンロードされた。

なるほど! と、思って寝しなにノートに記した。

そして、これは、ここに書いておこうと思い、今書いている。

 

究極の安全とは、お金を山ほど蓄えることかなとぼくなどは思ったりしますが、

どうも、世間のニュースなどを見聞きしていると、

億万長者だからといって、お金に不安がないということはないようですね。

どれだけあったって使えば減るし、減れば心配になる。

ざっくりいえば、そうした心理なのかもしれない。

 

さて、ぼくが昨夜キャッチした”究極の安全”とは「究極の信頼」ということでした。

究極に信頼を寄せるのものは何かといったら、

それは私。それは宇宙。それは神的サムシング。

 

そして私は私だし、宇宙も私だし、神的サムシングも私、という風に、

外側の存在ではなく、私とイコールであるものを信頼するということ。

 

ただ、「それができたら苦労しないよね」と、

即座にぼくはそのアイディアを否定したくなったら、すぐに”つづき”が浮かんだ。

 

「常に意識をすること」

 

不安になったら、”究極の安全”というフレーズを、究極の信頼を自分に寄せるということを思い出す。

究極の安全は究極に私を信頼することなのだと思い出し、「究極に自分を信頼する」と意図すること。

 

そこが、ゼロポイントというのでしょうか、過不足のない意識の地点なのだろう。

 

その地点に立ち返ることを繰り返すうち、

それはいつしか習慣となっているかもしれない。

さらにつづけていくと、もはや習慣、癖を通り越し、

おきあがりこぼしのように、自然とその状態になっている自分に気がつくかもしれない。

 

継続は力なり。

単純だけれども、継続していくと、それはものすごい力を発揮するのかもしれないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 


元永さん

 

この間、実家に新年会へミッチーと出かけたのだけど、

2歳になろうとする孫のために、母が図書館から絵本を借りていて、

いちばんのりだったぼくたちは、孫よりも先に絵本の束からこの1冊を抜き取り見た。

なんとすてきな絵!

 

元永定正さんという方の絵だそう。知らない人。

ちょっと興奮、高揚して元永さんの絵をぱしゃぱしゃ撮った。

 

元永さん、どんな方なのだろう? と検索。

なんともすばらしいインタビュー記事を発見。

http://www.mammothschool.com/2011/11/motonaga-sadamasa-interview/

 

元永さんが谷川俊太郎さんとつくったこの絵本のタイトルは忘れたけれど、とてもとてもすてきでした。


noteをはじめた

思いたって、noteをはじめてみました。

nomurakouheinoという名前でやっています、さっきから。

 

どうもぼくには言葉を大量放出したい傾向があるようで、

ここにそれを書いたっていいのだけど、それは自由なのだけど、

ぼくにとってのこの場所は、そういうものとはちょっと違うのだよね。

なんというのだろうか、ちょっと文章を書くにあたってアクセスしている場所がちがう感覚がある。

大人の自分ではあるのだけど、ポエムの自分というのだろうか、

そういうところとつながって書いている気がする。

 

noteは、たったのさっき始めただけだから予想だけど、

ぼくの思考の整理というか、それこそ部屋でノートにぶつぶつ書くようなものを、

外の世界、自分ではない誰かと結びついているスペースでやることが、

ぼくにとって新しい風、回路となるような気がしている。

 

毎日たくさん書くようになるかもしれない。

もしご興味あったらのぞいてみてください!

 


So HAPPY !!


A Happy New Year

 

はじめまして2020年。

そして、残り365日なのですね、2020年。

 

今年はどんな年にしたいかな、と自分的大掃除をしながらぐるぐるしていた師走。

ありがたいことに、積み重なった出来事や誰かの言葉がある日に発芽する種子のごとく、

ぼくのもとに行動としてのいくつかのアイディアとなりふいにやってきた。

それは何かということはここに書かない。

書かずに動くことにする。

そういう年にしようと思う。

 

本年もお付き合いいただけましたらうれしいです。

どうぞよろしくお願いします!


ふと、光

やりたいことはやりたいでいいのではないかな。

かくかくしかじかでやりたい、というのではなくて、

やりたいからやりたくて、やる。

 

だって、それをやりたいのだもの。体験したい。あじわいたい。

そう思う人として生まれているのだったら、その理由や意味は誰かにわかってもらわなくていい。

 

好きなことは好きでいいし、なぜ好きなのかを説明できなくたってかまわない。

それを好きじゃない人と議論して、戦ったり争ったりそんなことはしなくたっていい。

 

さっきふと、寒いような寒くないような夜の庭でそう思った。

 

 

この歌、好き!


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