ゲイである自分 愛されたい自分

あちこちに書き散らかしているのは、

自分の中で、あちこちがそれぞれ”違う場所”という意識だからかもと思う。

 

 

ここ、leeの話はなんというかポエミーな場所。

誰が読んでいるのかまるでわからないから、ひとりごとのような自分を出せる。

それから、とにかく長く続いている原点みたいな場所で、

ぼくのホームなのだと思う。まさにホームページ。

 

今年に入って突然やってみようと思いたち、即やり始めたnote

手応えみたいなものはあまりないけれど、

ここには書けないがあそこには書ける、ということがあるようには思う。

たとえばうんと長い文章を、ここに書くことをなぜかためらう。

 

もう4年とか前なのかな、ある日に書いた「母とのこと」、

「ゲイである自分 愛されたい自分」という7000文字くらいの心情吐露の存在が

今朝、寝床で急に思い出された。

あ、それをnoteにアップしたい、と思った。

 

いちおう再読した。

情けないことに、あの日の「自立」という一歩、その決意は”完了”ではなかったと知る。

未だに、母を頼りにしている自分がいる。まだいる。

そして、今日もう一度、ちゃんと自分で立とう、と心をあらたにした。

 

ご興味あったら、読んでみてください。

ぼくという人間の骨格みたいな部分の話。

 

https://note.com/nomurakouheino


いつかの心の整理メモ(会話について)

人との時間に求めているもの。

どうしたら満ちるか。

 

 

自分の話をたくさんできた場。

が、一方的ではつまらない(あまりそういう場はないけど)

自分の話に呼応というか、

反応があり ←関心をもってもらえる。示してもらえる

  ↓

こういうのって自分の整理とか解放

(自分の5ハウス的 しし座の土星、火星のよろこびかも)

 

相手(誰か)の話がメインでも、

一方的でなく、自分も応えて交流、

循環が感じられる場はよい

→人の話をある程度ちゃんと聞く人であることが大事

 きいている風でもきいていない人に話をする時すごく疲れる、エネルギーが循環しない

 

関心をもたれないとむなしい

相手を知ろうという意識

ただしジャッジメントはしない

ジャッジありだとディベート的というか、そのやりとりは苦手

ただ、それにより感情がひきだされる効果があったりすることも

 

相手メインでも

その人が一方的な話でなければたのしい

ワンマンショーはしんどい

 

ひとつには、

自分が求めるものを近しくする者との会話は

おもしろいし、満たされるのかも

それってやはり階層なのかな?

いや、”その場”への姿勢の話かも

ジャンルとか現状とかはちがっても、

同じように、スナック菓子的お喋りは求めず、

さそり座的というか、そういう機会ととらえる人とだとたのしい

さそり座的会話を拒む人との会話はしんどいのかな

ひたすら情報交換とか、噂話とか、ぐちだけとか

「うすい時間」ってもったいないのだな

うすいやりとりに時間を使いたくない

そのためにお金とかエネルギーをさきたくない

”うすさ”は自分とのむきあい度合いとか、

自分との一致感だろうか

シリアスな話をしたいわけではないし、

特定ジャンルの話をしたいわけでもない

そういうことではなくて、

本当の声、心の声で話したいのだな

ちゃんと、自分の話をしあえたら、きっと満ちたりるのだろう

 

ということは

自分自身が心からの声で話し、循環の意識があればOKなのでは?

まずは自分から

 

人によって深度はちがう

コアな階層がちがうと会話はかみあわない、深まらない

ただ、そこに「対立」「競争」がなければ、

自然と循環するのかもしれない

自分にこそ「対立」「競争」がなければ大丈夫なのでは?

 

それから自分の”理想”をもってのぞまないこと

期待があるとガッカリする

「会話」の実験をしてみる意識をもってのぞめば、

その点のたのしさはある

個人的にテーマをもってのぞむ

 

「深めたい」とか「モヤモヤをほぐしたい」

みたいな意識があると会話を大事にする

そこにヒントやら糸口を探そうとして、その時間を尊ぶ


下準備メモ

いつかの取材のために記していた下準備メモ。

結局、役に立ったような気はあまりしなかったけれど、捨てずにキープされていたメモより。

 

 

ご縁ーくされ縁という言葉もあるけれど、やはり双方が気持ちの良い関係であったり、

互いに魅力のような何かを感じていないと、自然と距離がうまれるのかな、と

 

会った人のどういうところをみているのか。感じているのか。

小説に書く、演じるということをされる方々は意識的か無意識的かによらず

きっと、観察というか洞察しているのではないか、と

 

何かを感じたとき、違和感のようなもの

それを(関係性にもよると思いますが)相手に伝えるか否か

ぼくは相手の人生にふみこむことへの葛藤のようなものがあって(相談されたらいうけど)

そのあたりのことはどう考えていますか?

 

自分にとって「生活」はとっても大事なもの

パートナーと猫が9匹いて。それまでの独り身と比べると、

生活においての”ホーム””居場所”があることで、たとえば皿を洗うとか、猫の世話とか、

そういった”ルーティン”があることで、精神的に安定すると感じる。

「生活」とか「ホーム」はどういう存在ですか?

どんなところに幸福を感じますか?

 

子どもーリアリティがない。ただ、周囲の友人が母になって変わるのを目の当たりにすると、

やはり”別格”的存在なのかなあ? なんて思う。

母は唯一無二の存在(同性同士だとまたちがうのかな?)

自分はこの年でもまだ母の存在が大きくて、母を亡くすことが怖い。

「母」とはどういう存在。どんなことを継承されたか。大事なものは。


day15

ここ数日はこれを書いていなかった。
いろいろあったのに、あったから書いていなかった。
今日のレッスンに取り掛かる前に書いておこう。

 

 

まずはさっき断った。Mくんの家での宴を断った。
行きたい気持ちも強くあるのだけど、体は疲れている。
早く休んでよく寝れば回復するかと思ったけど、いっそ体は休みたがっているのがわかる。
だけど、それでも迷って迷って、アストロダイスまで振って、
それでも迷って、結局断りの連絡をさっきした。

 

Mくんなど、スーパーフラットな人で、
とっても付き合いやすいその人の誘いなのに、
ぼくは断ることをとても恐れた。
断ったものの返信がまだないことが少しまだ怖い。

あ、結果今日のレッスンのことを書き出している。
過ぎた日のことはもういいか。出てきたら出てきだし、出てこないならもういい。

 

怖いのだ。ぼくは人に対してNoを伝えることがとても怖い。
断ったら二度と誘われなさそうで怖いという思いがある。ずっとある。
人の誘いを断ることが相当苦手で、ハードルが高い。
Yさんが双子座の人は、さらっと断れる。それは才能。というようなことを言っていたが、
自分に関しては、さらっと断ることが得意ではない。
対外的にはそう見えることもあるかもしれないけれど、
内情は、いつも葛藤に葛藤を重ね、
できるだけYesしたい、Yesしなくては、と葛藤し、
それでも気持ちがYesとならないときだけ、
毎度緊張しながらNoをしている。
あきらかに予定が他にあるときは断れるけど、

予定は空いているのにNoするなんてたやすくない。

 

今回のような場だと、そこに参加しなかったことで
何かしらのチャンスを逃しそうで怖いというのもある。
そこでとてもいい話があるとか、すてきな人と知り合えるとか、
そういう”未来”を逃しそうで怖い。
でも、その”未来”とは何だろうか?

 

ぼくは他力本願なのだな。
誰かがぼくを見つけてくれる。誰かがぼくに与えてくれる。
そういう思いがあるのだろう。
自力を信じていないのかもしれない。
それから宇宙の流れとか、
ライトタイムを信じきれていないのかもしれない。
もし、本当に「ライトタイム、ライトプレイス」を信じていたら、
出会うべき人にはどうやったて会えるわけだし、
必要なメッセージや機会は逃しようがない。
それを信じていないから「自分がNoしたことで千載一遇の機会を逃すかも」と思って返事を躊躇する。

でも、自分の本心にそむいてYesしたことで手に入れたものというのは、
よく考えたら、自分とズレた場所での出会いということになる。
それが一見すごく素晴らしいものと思えても、
もとをたどると、自分に背いているところから始まっている。
だとしたら、それって本当に素晴らしいものかはわからない。

 

なぜ自分を信じないのか。
これまでの人生があったから今がある。
今があるということは、今生きている、今日命があるということ。
生きていることが正しいとは思わない。
死が間違いともダメなこととも思わない。
だから「今日生きていること」が絶対の善だとは思わない。
だけど、生きていないと、今のこの日、目の前のすべて、悩み葛藤する自分も存在しない。
そう考えると、悩めることも生きているからこそなわけで、
悩むという経験も、生きているからこそできるのだ。

 

「生きていること」に良し悪しはないにしても、とにかく生きていることは事実。
そして、今日も命があるということは、これまでのすべてがそのようであったからこそ成立する。

 

ifの話は無意味かもだけれど、
もしも昨日の行動の何かが少しでも違ったら、今日がなかったかもしれない。
朝、目を覚ますことがなかったかもしれない。死んでいた可能性もある。
だとしたら、この世で経験できるすべてのこと以上に、
この世の経験の大元というか、器みたいなものが「生きている」ということなわけだから、
生きていることが、すべての経験よりも、尊いこととなる。
今日生きている、ということ以上に貴重な経験はないということになる。
そう考えると、あらゆる選択、そのすべては「正解」だったのだ。
だから生きているのだ。

 

ぜんぶ「正解」で、今日も命がつづいているからこそ、悩むことができる。
ある意味ぼくは、今日までの43年と何百日か、一度も間違うことがなかったのだ。
毎分、毎秒、毎瞬、1mmの狂いもなく「正解」を出し続けてきた。
だから生きている。

そう思うと、自分って本当にすごい。
ぜんぶがぜんぶ正しかったのだ。
人に対してしてしまった失礼も、心の中で抱いた激しい攻撃性も、実際に放った言葉、行動、
穴があったら入りたいくらい恥ずかしいことも、あとから何度も何度も悔やんだことも、
そのすべては、それで正しかったのだ。

 

生きていることが正しいとは思わない。
だけど、生きていなくては正しいやら間違っているやら
そういう逡巡すらできない。
間違った選択なんてきっとないのだ。
そう思ってみる。
そう思ってみたら、怖いことが少しは減るかもしれない。

断りたい自分がどこかにいるのだとしたら、
その小さい声こそ大切にしてみよう。
大きい声、自分の理性や恐れから生まれた声に従うことばかりではなく、
かすかだけど、嫌だとか、しんどいとか、動けない動きたくない、
そういうワガママな自分の声に耳を傾けよう。
かき消えそうなその声を聞き届け、尊重しよう。

 


アストロダイス1月

人生で初めて手帳のことばを書かせてもらった今年は、

その「おいせさん手帳」を使って、毎日短い日記を書いている。

さらに毎朝アストロダイスを振って、その日の自分へのメッセージを受信してみている。

 

 

元旦はダイスを振るアイディアがなく、1/2から31日までの30日間の集計。

毎日やっていて面白いなと思うのは、同じ目がつづく時があること。

今日も土星、翌日も土星みたいに。

 

ドラゴンヘッド&ドラゴンテイルというご縁やあの世との扉などを意味するノードが、

合わせるとほぼ3分の1も出ていることが興味深い。

 

ダイスのメッセージで自分が好きなのをいくつか書いてみます。いちおうその日の日記付き。

 

 

1月xx日

 

家庭改革はかわいいおしゃべりから

気負わずに子どものような軽やかさと

大人のやさしさをもって表現すること

 

今日、また作文をしたところ、ダイスのようなことばがでてきた。

上とつながるとか、子どもとつながるとか、

それを自分で”ファンタジー”とすれば

もっと自由に書けることを知る。

ぼくは「ぼく」「自分」というものにこだわっていたというか

とらわれていたのかもしれない。その枠をとっ払ってしまうと、

一気に世界が広がった。「小説」というひとつの形とは、

自由を与えてくれるのだな。

かつては「自分」を表現するために「小説」を使った。

けれどそれは「アタシ問答」で必要なくなった。

”その次”があらわれた。扉をひらけた気がしている。

夜、Mがお腹が痛いといっていて、その1時間後くらいにぼくも腹痛。

外はつよい雨。明日はあたたかいらしい。

 

 

1月xx日

 

心からのことばや言葉はやがて人々に届く

真実の声には真実の力

ウソはやがてばれる はがれる

 

今日は9時くらいに起床。その前に、時刻不明の未明におきてトイレ。

どくだみ茶の力かトイレにいくことが多い気がする。

今日はすこしひらきなおり、もう書くしかない、

と思いWORDをひらいた。

他に今の状態を扱える術が浮かばなかった。

そう思い、書いたら少しすっきりした。お昼前、

くうこから久々の「電話したい」とのLINE。

40分後にSKYPE。たのしかった。そして、

明日から一緒に「スピリチュアルレッスン」を

やることとなった。家にいても何かはおこる。

夕方またテープおこし。毎日のようにむきあっていて偉い。

よくやっている。夜はSATCをみる。1日がおわった。

 

 

1月xx日

 

とてつもなく深い穴から

とてつもなく広々としたどこか はるか彼方まで

自分の宇宙をのぞく

 

今日は10時に起床。選挙へ行かない? とM。

2人で投票へ。なんだかふしぎな午前中だった。

生きているけど生きていないみたいな...。

午後、初めてのレンタルDVD屋へ。

どうしてもそうした何かにふれたいみたい。

現実逃避欲を感じていて、今日こそ、

と出かけると、閉店セールをしていた。

レンタルは終了していた。すこし見よう、と見始め

夢中になっていた。没頭。

面白かった映画はいくつもあるけど、手元に欲しいものは多くない。

だけど迷わずに「バスキア」は手にとっていた。

あの映画、好き。あの空気感が好き。

夜、みっちーが台湾風? のメンをつくってくれた。

家にいながらこれが食べられるって本当にありがたい。

今はまだ10時台だがもう寝る。


自分を大切にする

 

ふと、わが家を見渡して、雑誌やテレビに出てくるシャレた家とは違うなと思った。

その対岸のシャレた家基準でわが家を眺めるととてもしみったれている。

ごちゃごちゃして、チープで、なんだかな。

でも、果たして自分はテレビのシャレた家のような家に住みたいのだろうか? 

いや、ぼくはいいかな。

ぼくが住みたい家って、自分が居心地良い家って、そうじゃない。

この、ごちゃごちゃしてカラフルなこの家みたいなところがいいんだな。

 

外側になんの基準を求めていたんだろう?

 

これは部屋のことだけにあらず。

あらゆること、人生すべては、外側に基準たるなにかというのはあるが、

それに従うことはない。

 

外へと当たり前のように向いていた意識の方向を反転させる。

人のことはいい。人の顔色も、空気もいい。

自分が何を感じているのか、何を思うのかを見つづけていくこと。

 

人とつながる前に、自分とつながらなくてはね。


day10

昨日は獅子座の満月。

先週の金曜日にハワイのことをやり始めた日は最高潮に気分がよかったが、

昨日からまた雰囲気が変わったよう。少しどんよりしている。

なんだか体が疲れていて、今日はなかなか起きられなかった。

ミッチーも今日は「オフ」と言い、まだ寝ている。12時40分。

 

 

昨日はレッスンについてほとんどエネルギーを割かなかった。

そういう日もある。前日にお酒をたくさん飲んだからだろうか。そうかもしれない。

 

今日のレッスンについて、書いておく。

今日は自分のエネルギーを下げるもの上げるものについて。

このレッスンは、あまり乗り気がしない。なんというか、自分にとってそう発見がないような気がしている。

でも、すこしだけ向き合ってみよう。

 

下げるものについて、先ほど思い浮かんだのは高圧的な人、そうした場が苦手。

男性的な人に対して、ぼくは比較をし始め、コンプレックスを感じてしまう傾向にある。

たとえば政治や経済、10ハウス的なものに価値を強く抱いている人との時間は気詰まりする。

気詰まり、とはよくいった言葉だ。気が詰まる。気が滞るのだな。

なんだか自分が自分のままいることができない感覚となる。

相手から批判、非難されたという思い込み、記憶がうずくのだろう。

それは兄に対しての引け目のようなところが古くにはあるのだろう。

兄と比べて自分は劣っている、というような思い込みがあり、その傷が発動する。そういうイメージ。

兄と物理的に離れて、距離ができてからは、そのような人を友人知人に登場させ、

その度に焦りにも似たような気持ちがわく。

あれに似ている。海外旅行などへ行き英語が話せたら、と帰国してすぐの頃にはそのように思い、

英語を勉強しよう、と教材的なものにお金や関心を瞬間的に注ぐ。

政治経済に強い人から、たとえば説教とまではいかなくても、そのような雰囲気の会話をした後などには、

よし、自分ももっと勉強しよう、などとかつては思い本などを買うが、つづかない。

読んでみても頭に入ってこない。その感じは、苦手な科目の勉強みたいな感じ。

その苦手を克服してバランスの良い人間にならなくては、という思いは年々手放しつつある。

そのおかげか、近年そのような気持ちにさせる人との接触がほとんどない。

 

苦手なこと。エネルギーを低下させるものや人。

自由に対する拘束を感じる場や人に対してそのように感じる。

それは相手が強いるものでは実際はなく、ただ自分がひとり勝手にそう意味づけているのにすぎない。

そこには「そうでなくてはダメ」という概念があるのにちがいない。


津留晃一さん

津留さん、Twitterやってらした。

https://twitter.com/369Sayuri

 

津留さん is ジャパニーズ・グレイト・マスター ^-^


day8

きのうのことを書いておこう。「ハワイのこと」に取り掛かったら夢中になった。

みっちーが朝早くに出かけていったこともあり午前中から書き始めたら、なんだか興奮し、

お昼もとらずにずっと書いていた。

書いている時間というのは、ふしぎなことにハワイに意識が飛んでいる。

10年前の時間を生きながら肉体は2020年にあるその感覚がたぶんすごく心地良いのだろう。

そして、当時は書けなかったことが今は書けるようになっていることを知る。

それは技術の話ではなく、心の問題。

あの頃はまだ受け入れることができなかったことや、見つめることのできなかったものが、

時を重ねた今は、当たり前のようなものとなって、言葉にできる。

そうして当時の言語化不能なこと、未消化なものを今の自分が言葉にしていくことで、

10歳若いあの日の自分が癒されていくのを感じた。

当時の自分を「それでいいんだよ」と受け止めてあげている印象。

書くことはやはりセラピーなのだな。

 

使命を探る1日の終わりに、とにかく言葉にしたものは、

「目に見えないものを、よろこびとともに目に見える形にする」というもの。

しっくりきている。さまざまな点が線となっていくのを感じる。

手段はだからなんでもいいのだな。絵でも言葉でもその他のなんでも。

ただ、今日のぼくは文章が面白い。

ふしぎだ。

この何年も敬遠していたというか、あまり大切に思えていなかった作文が、

ここへきて、その存在感を一気に強めている。

 

 

今日のレッスン「ターニングポイントを探る」で真っ先に出てくることは、大学を中退したことだ。

おそらく前回も前々回も同じことを書いたと思う。それくらい決定的な転機だった。

完全にあそこから人生の流れが変わった。

ものすごく恐怖して、だけど抗えず中退をさせてもらい、専門学校へ進んだことは、

ぼくにとってそれまでの「常識」や「こういうもの」という世界観を覆した。

角度でいうと、180度の転換だったと思う。

あれがなかったら、と考えてもよくわからない。

あそこで辞めなかった人生に興味がない。

 

それから昨日ぶっしーが何かの話の流れから、

もしノムが「女性自身」の専属記者を続けていたら、という仮定のたとえ話をするのを聞き、

その未来を先ほど一瞬想像してみたが、それはやはりないことだったと思う。

お金を今の10倍近く稼ぐくらいのフル稼働をしていたとして、そのぼくはお金を何に使うだろう? と想像すると、

どう考えても、遅かれ早かれスピリチュアルというか精神世界に投じたと思う。

休みのたびに海外旅行へ行きまくるとか、マンションを購入とか、どこかへ留学とか、

そのようなことは、やはりなかったと思う。

精神世界に興味をもたず、そのようなことにお金やエネルギーを投じない自分がもしもいたら、

それは、今の、ぼくの知る自分ではない。

それはネガティブでもポジティブでもなく、ただ、自分とは違う人と感じる。

 

心や目に見えない世界は昔から好きだったし興味をもっていた。

そこに目を向けずに、外側の「海外」や「家」などに向く自分がもしもいたら、

その自分とは、きっとハッピーな自分な気がする。

自分と向き合いたくなくて外側に目をそらせるような感性ではない。

外側の充実を40代まで求めていられる自分とは、たぶん、内側が満たされている、整っている自分だと思う。

そして、そのようなハッピーな自分は、やはり、あのまま専属記者をつづけ、

日常的に働く日々では得られなかったと思う。

どのみちどこかで精神世界に傾倒し、仕事以上に自分と向き合う機会を求めただろう。

ifの話はifの話でしかないけれど、そう思う。

だから、専属記者を辞めた、毎日働くことが普通、という人生を辞めたことも、

ぼくにとって、ものすごく大きなターニングポイントだった。

 

その二つのTPで得られたものは、たぶん自信。

自分を信じる心だと思う。

自分がそうしたい! と、葛藤に葛藤を重ねた上で決めた選択は、信じるに値するということ。

飛び込む前は不安や恐れでいっぱいだけれど、飛び込んでみたらなんとかなった。

その2つの大きなジャンプを経たことで、2015年に一度仕事をすべてやめることもできたのだろう。

 

3つめの転機は、2015年の仕事をすべてやめたこと。

結局半年後には仕事の依頼があり、ライターを再開したわけだけど、

今書いていて気がついたことに、専属記者を辞めたときも、2015年のときも、

どちらもライター復帰のきっかけになったものは、それまでとは違う仕事だった。

そして、どちらも劇団四季の仕事だった!

なんというご縁。

 

仕事の流れや質を変えたくて辞めたわけではない。ただ、どうしてもそうしたかったからした。

結果、そこから自分の仕事の流れや、取り組み方などが変わった。

書くという仕事をずっと続けているが、大きくその仕事に変化をもたらせた。結果、そうなった。

 

こうして振り返ってみると、挑戦というか冒険がぼくの人生を大きく動かしている。

自分が決断したことがターニングポイントとなっている。

たとえば、事故に遭うとか、誰かに認められるといった、やってきたことではなく、

自分が能動的に選んだその決断が、そうしたことの前にあった。

あとは、恋愛というのも、ぼくの人生に大きな影響を及ぼしているものかもしれない。

ミッチーと出会ったことはいちばん大きなことだけど、それ以前の恋愛も、

いや「恋愛」というよりは、お付き合いだな。

ぼくになんらかの強いものをもたらすのは、ちゃんと「付き合った」関係の人が大きい。

とくに、別れを決めたり切り出したり切り出されたりした時というのが、分岐点感が強い。

はじめは、軽いのだ、ぼくは。気軽に始める。さくっと付き合う。

そこはいい。だけど、どの人とも別れの時は、重かった。いつもしんどく別れ、

結果、誰とも今は交流が一切ない。

元彼と友だち、みたいなことにはまったくならない。

その”決別”的な別れゆえ、より分岐点感が増すのかもしれない。

友人関係は基本、「断つ」とか「切る」みたいな発想をしない。去る者追わずではないが、

そのような流れに自然となっていく人がほとんどで、それに対してなんとかしようと思うことがほとんどない。

それは、関係が変わらざるをえないというか、関係、距離感を変えたいという感情が、

たとえあちらからそれを発していたとしても、同時にぼくもそれを感じているのだと思う。

そこのズレは、たぶん大きくないタイプの人間。だから、自然と距離感が変わる。

 

ターニングポイントで言えば、Xさんとは友人だったけれど、意識的に、心を決めて関係を変えた。

あれは、まぎれもなく人生の大きな転機だった。

なぜかというと、学校や仕事を辞めることは環境を変えることで、それをすることの抵抗は、

自分のその後への不安や恐れによるものだけど、

対人間の場合は、そこに軋轢というのか、遺恨が残りやすく思う。

できればそのようなことはせず、自然にフェードアウトさせたい。

恋愛の場合はしかたがない。一応「付き合いましょう」という言葉による契約を結ぶのだから、

それを解消するには、ふたたび”解消”の契約を交わさないとならない。

それを当然と思うから、しんどくてもやる。きっちり別れを告げるというその行為には抵抗がない。

が、友人関係の場合は、そういうものとは違う。だから、思えば、あれが人生で初のケースだったのだな。

ぼくは長いメールを書いて、送った。そこにはっきりと「関係を変えたい」と書いた。

どうにもそれまでの関係が苦しくなっていた。

が、双方にそれがあったわけではきっとなかった。だから、自分が切り出すしかなかった。

 

その選択で得たものとはなんだろう? 自由だ。心の自由を確実に得た。

ぼくをジャッジする権利を持つ人がいなくなった。いや、もともとそのような権利はないけれど、

当時の自分は、完全に相手にその権利を渡していた。

そうなると、自分のやることなすことに正否の判定をくだされる。

自分こそがそれをされることを当然と考えている。

それでは自由はない。自由になにかをしようと思っても、

それを否定されたら、即座に「自分は間違っていた」と思うのだった。

もし、あの決別がなければ、絵などとても描けたものではない。

絶対はないが、絶対に今のように絵を描いてはいなかったと思う。

こうした文章は、当時も書いていたけれど、それを人目にさらす際には、

いつもXさんに何を言われるのかを気にしていた。

褒められたいという気持ちもあったと思う。が、怒られないかの心配の方が100倍くらい大きかった。

失敗しないように、間違わないように、怒られないようにした何かは、

自分が始めたことであっても、自分のものとは違う。違うことはないが、純度は下がる。

人に気に入られるように、受け入れられるようにとつくるものは、アートとは違うものだろう。

 

そう思うと、あれも、まぎれもなく超転機だったのだな。

そこには超勇気が必要だったし、その後も長年にわたり自分を癒す必要があった。

習慣とはそういうものだ。

専属記者を辞めてからも何年も締め切りの木曜日になるとそわそわした。

ああ、今頃は編集部でみんなが働いているのだろうな、と、ヴィジョンがわいてきた。

今はもうそれを思うことはない。ちょうど今年で辞めて10年になるのかもしれない。

Xさんとのことも、その存在を日常的に気にしなくなるまで何年もかかった。

今も100%消え去ってはいない。まだ、うっすらとつながりはある。

そのつながりさえも断つことが自分の本心なのかがずっとわからない。

たぶん、そういうことではないのだと思う。

双方にとっていい気持ちで付き合える距離感、関係としてつながっていたいのかもしれない。

その距離感が、今のこの状態なのかもしれない、と今思った。

そう、だから、別にこれでいいのだな。

数年に1度くらい連絡があって、それに応えたりして、そういう距離感で。

そこに対して、断ち切らなくてはと思うことも、もっと密になったほうがいいのかも、と思う必要もない。

変化は無理に起こすことではない。

 

上にあげたどのTPも、やはり自分の決断、選択によるものだった。

それから、それをする前には、当たり前だけど、必ず自分の内側にその種があった。

「こうしたい」という気持ちがあった。それは強いものだった。

それは、選択肢があるようでないものだった。自分の中で「ねばならない」というものだった。

 

今、書いていて、もっと自分を信頼しようと思った。

信頼していいだけの実績があるじゃないか、と思った。

信頼には実績などいらないのかもしれないけれど。

 

それからTPは、一瞬でやってきて瞬間的、瞬発的に決めなくてはならないというものではなく、

選択をするにふさわしいだけの猶予が与えられているものかもしれない。絶対的に


ダウンロード

中央線だったか総武線だったかの午後、シートで目をつぶり西荻へ向かうどこかで、ダウンロード。

感情は、消し去るでも、ひたるでも、没入するでもなく、味わうものなのだ。

適正距離からみつめ、現実という「今」にまぶされたそれを知り、ほほう、と味わうものなのだ。

 

 

ありがたき気づき。


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