2人展「uni」(9/21,22,23,28,29)のお知らせ

 

オンリーワンや唯一無二とも違って、

同じ人はこの世に存在しないというような意味で、ただひとつのもの。

スペイン語の unico ってそういうニュアンスの言葉なんだよね。

友だちがそう説明してくれるのを聞き、なんてすてきな言葉だろうと思った。

ぼくたちが手がけた絵や刺繍の作品は、たしかに「unico」だと思った。

uniにつづくスペイン語の言葉は、ほかにもすてきなものがいくつもあった。

そして、uniって、ユーandアイみたいじゃん! と気づき、

ぼくたちの作品のタイトルを「uni」と、させてもらおうと思った。

とにもかくにも、物体としてただひとつしか存在しない作品たちです。

お時間ゆるしましたら、見にいらしていただけましたらうれしいです。

 

*

 

たいへんギリギリになってしまったのだけど、

次の土曜日から、ぼくと、ぼくのカレこと伊藤通洋くんの2人展を行います。

ところは、渋谷は奥渋谷、東急文化村から松濤方面へ10分も歩けばたどりつく「maruta」というお店です。

ぼくは絵を、カレは刺繍の作品を展示&販売します。

 

個人的には、今回ほど気ままに描いた絵ばかりの展示は初めてかもしれない。

ひとりでの展示ではないというある種の気楽さから、うんうん唸るようなことはなく、

描きたいって思ったそのときに描いた。

なにを描こうというのも、まるで決めず、出てくるものをポツポツ描いた。

 

伊藤くんの作品は、ぼくの絵を刺繍してくれたりもして、

半分関わっておいて言うのもなんだけど、とてもかわいいです。

絵も、なんだかかわいいな、とか思ったりもして、何枚かは家に飾っている。

 

展示の場所を提供してくれたmarutaさんとは

去年の今くらいに友だちが紹介してくれて出会った。

飼っている猫の名前が同じだったり、同じお菓子の空箱を大事にしていたり、

おもしろい偶然が重なったことも手伝い、

ぼくはお客さんだったにもかかわらず、そのまま話し込み、

その後、わりとすぐに八王子の家にも友だちと遊びにきてくれることとなった。

 

matutaのたまちゃんと、あきらくんのふたりが、

打ち合わせに行ったときに、ああだこうだと、新メニューの話をしているのを眺めていて、

変な言い方かもだけど、男女のカップルもいいなー、と思った。

(ぼくにとっては男女カップルがイレギュラーというかなんというかなもので)

ちがう個性のふたりが、それぞれの個性をそのままに、

噛み合わないところもありながら、だけどうまく回っている。

そのあり方が、ぼくたちのようだ、と思った。

 

そんな maruta での展示は、好きなものを好きなように飾ろう!

そのようにも思った。

 

とっても近々で、もう予定が入ってるよー、って人も多いのかもと心配もありますが、

きっと、それでも巡り会える人と巡り会える機会になるだろう、と、楽観もしている。

 

あ、と、見えない針がピクリと動いた方いらっしゃいましたら、

ぜひぜひお越しください!

いっしょに、秋の午後をすごしましょう。

 

作品展「uni」

渋谷区神山町17−1第二渡辺ビル3A 「maruta 」

電話 03-5738-7083

 

在廊日:9月21日、22日、23日、28日、29日にいます。13時〜20時頃

平日は、基本的にランチタイム(11:30〜14:30)の営業時に、

見づらいかもだけど、見ることはできます。

ぼくらの在廊日は、鯖サンドやおつまみプレートなどと、ドリンクがたのしめます。

 

 

どうぞどうぞ、よろしくお願いいたします!

 

のむら


今日のエネルギー

とんでもなく深い部分、

それは、あなた自身の深層心理というレベルではなくて、

ひょっとすると、先祖代々受け継がれてきた、DNAレベルの変容のチャンス。

そのようなイメージがポーンとやってきた。

 

変容への鍵は、意欲。

意欲的に変わるといっても、どうしたらいいのだろう、となりますよね、わかります。

それはただ、気づけばいい、そういうことのようです。

 

無意識にしている、自分と超一体化しているなにか。

それを癖とよぶのでしょうけれど、癖というか、精神的骨格みたいなものかもしれない。

骨格、骨なんてどうしようもないでしょう?

と、即座に思うのだとしても、それは現代に生きていたらふつうのことかもしれませんが、

それも、また「癖」と、みることもできる。

 

そのように、思い込んでしまっている。

それは変えられないのだ、しかたがないのだ、と思い込んでしまっている。

それを、「あれ、これは思い込みなのでは?」と気がつくと、そこに変容の渦がうまれる。

そして、自分がその変容の渦をそこにイメージすることで、ますます渦はくっきりはっきりとし、

とうぜんその威力も増す。

 

きょう、誰かに会うことになっているのだとしたら、

そのお相手との時間に全力を注ぎましょう。

いえ、「がんばる」ということではなくって、なんというのでしょうか、全力でいる。

全力でその人とのただ一度だけのその瞬間をあじわう。たんのうする。たのしむ。

 

そのような、本気のエネルギーは、相手の奥深くにその振動が伝わり、

ふたりはひとつになる。愛し合えるのでしょうね、その瞬間。

 

 


バランスを拡げる

今日のエネルギー予報は、

バランスを拡げる、という言葉からやってきました。

 

自分が快適だと感じているスペースをひろげてみることができる日です。

それは物理的なスペースかもしれませんし、

目に見えないものかもしれません。

 

たとえば家の中や仕事場などから、余分なものをとりのぞく。

とりのぞくことは、スペースを生むことにほかなりません。

 

余分なものがわからないのならば、自分に尋ねるのみ。

 

これ、好き?

これ、もっていたい?

これがあると自分は心地が良い?

 

過去の自分がすべてに、Yesを言ってくるかもしれません。

あまりにも自動的なYesなのだとしたら、それは古い自分の声かもと疑ってみるとよいかもしれません。

 

その場合、もう一度、

襟をただすように、精神的にもう一度自分としっかりつながることを、

それにふさわしいと自分が感じる動きでやってみる。

咳払いかもしれない、のびかもしれない、目をつぶることかもしれない、それはなんでもよいです。

 

そして、ふたたび、自分に尋ねる。

今現在のわたしにとって、本当に必要なものですか?

これから向かっていくますますすばらしいわたしに不要なものを教えてください。

 

そのように問いかけたら、ひたすら意識を自分の感覚にむけてみる。

好きな食べ物を前にしたときと、苦手な食べ物を前にしたときでは、

全身がまるで違うのだということは、誰でも知っているのではないかと思う。

それは、誰しもが自分の感覚としっかりつながっているのだということ。

 

自分とつながりましょう。そして、平和で美しいスペースへと、自分のセンスで動いてみましょう。

実際にからだを動かせないのなら、心の中でスペースの整理整頓、棚卸しをしてみること。

 


エネルギー予報

自分の中にはすくなくても2人います。

良し悪しの判断をするわたし、

すべてのことをそのまま受けとめるわたし。

どちらが心地よいでしょうか?

 

あるものをそのまま受けとめることがむつかしいと感じることこそ、

いったんそのまま受けとめてみる。

心の底から受けとめられなくてもいいのです、ふりでいい。

OK、わかったよ。と、寛大なふりをしてみる、心の中で。

その余裕はそのまま見えないどこかのスペースの余裕となります。

 

ひろがった視野から、けれど、やっぱりNOだわ、となったとしたら、

それが自分の応えなのだからNOする。

 

だけど、自分はこうなのだ、と、いつもすべて一択にしてしまうと、

あたらしいことはやってこない。

それはそれで自由だけど、ちょっと窮屈で退屈なんじゃないかしら、と思う。

 

今日は、自分の中に大人のわたしの相棒として、7歳の革命児を呼びだしてみましょう。

 

えー、やだ! なんでとかわからないけどやだ!

 

そういう7歳児は、大人の自分をふりまわすでしょうけれど、

すごくエネルギッシュな自分を感じられるはず。

 

頭ごなしに7歳児に「ダメ!」と言うのではなくって、

かつての自分がしてもらいたかった風に、

「そっかそっか、嫌なのね。うん、わかったよ。だけど、今日はこうさせてほしいな。いい?」

ってな具合に、対話をする。対等に扱うこと。

 

子どもが教えてくれることってたくさんあると思うのです。それは内なる子どももいっしょ。

 

 

 


今日の予報

目に見えない領域を耕す。

そんな言葉がふってきました。

目に見えないどこかは、耕されることを待っているのかもしれません。

 

目に見えない場所を、どうして耕すことができるのでしょうか。

それは、意識を向けるということなのだろうと思う。

 

目に見える現象とセットに、目に見えないどこかにも写し鏡のようになにかしらが起こっている。

たとえば、燃え盛る火を前にして自分のどこかに、それを怖いと感じるエネルギー、

あるいは、血がたぎるようなうねり、

そのように、どこかが必ず動いている。

 

そう考えてみるだけで、目に見えないどこかがうっすらと脳裏に見えてくる気がしませんか。

 

耕すという行為は、クワか何かで土に連続的にエネルギーを注ぎ、攪拌するようなもの。

奥が前へ、前が奥へ、まじりあう。

 

自分が「こう」と思っていた枠に気がつけば、その枠を壊すことができる。

枠が壊れるとき、おそらくさらに大きな枠が生まれる。

肉体をもって生きている以上、枠そのものから完全に自由になることはできないのかもしれない。

自由とは、不自由の中にあるのかもしれない。

 

だとしたら、不自由を嘆くのではなく、不自由をあそぶ。

不自由だからこその自由なのだと、その見えざる表裏をありがたがってみる。

 

ごくささやかなことひとつでも、きのうまでの自分から意識的に脱皮してみると、

現実世界は、思いの外おおきく動くかもしれません。

 


遊びをへて

ひさしぶりの友だちとの時間。

ひとり帰り電車に揺られながら、内側に、パンクみたいな、ロックというのか、

アングラ演劇なのか、そういう、大きなものへのアンチ!的な熱がふつふつとしている自分に気がつく。

なにかかましてやりたい、みたいなエネルギー。

 

ああ、ぼくにもそういう部分があったのか。そうか、だったら、その自分もだしたいな、なにをしよう。

などと強めの曲を耳に、さらに気分を盛り上げながら思って帰って風呂に入って寝て起きたら、

すっかり自分からそういう気分が去っていた、台風通過的。

 

もしかして、ひょっとして、そういうことか。

彼女といっしょにいたことで、ぼくの中にあった小さい熱が彼女の強い熱に反応、共振し、

おおきく引き伸ばされていたのかもしれない。

ともに過ごす人のもつ強い部分に自分のそれが感化され、拡大されていたのかもしれない。

 

誰といるか、は、どんな自分といるかということ。

誰といたいか、は、どんな自分といたいかということ。

 

 


今日の予報

今日の予報という言葉がふいにやってきた。

そして、予報の方法もやってきた。

占星術の星座と天体のくみあわせから浮かぶことを書いてみなさいな、そういうヒントがやってきた。

 

 

 

本日9月7日の予報です。

 

コミュニケーションのあり方をあたらしくしてみるとよいでしょう。

あたらしいってなに? とお思いの方、

そのnewはあなたの中にあります、外からもってくることはありません。

 

あたらしい言葉をおろしてみるのはどうでしょう。

いつもは、瞬間的に浮かんだ言葉を即座に口にだしているのなら、ひと呼吸おいてみる。

あるいは、熟考しがちな人は、浮かんだ言葉をそのまま放ってみること。

そうして、言葉を発したあとに生じる自分の感情を、波紋を観察するみたいにとらえてみる。

 

あ、つまらないことを言ってしまったかも。

と、自分の言葉を否定的に感じているのだとしたら、その否定感情を、眺めてみる。

じっと見ているとそれは時とともに小さくなりやがて消え去っているにちがいありません。

 

今日のコミュニケーションは、けれど、どちらかというと、

思ったことをポーンと放ってみる、かわいらしい小学生くらいの感じがよいようです。

 

それから、目に映る視覚的情報をすぐに分析的に言葉に変換してしまうのではなく、

自分なりに、あたらしい意味を与えてみるというのもおもしろいと思います。

 

蚊がブーンと飛んでいたら、血を吸われる、かゆくなる、やっつけねば。

とオートマティックに連想し、叩き潰そうと発動するのではなく、

蚊の動きやフォルムやたてる音などから、まるで初めてその存在を目にしたように、

大喜利みたいに、オラクルカードをひくみたいに、抽象画を前にしたかのように、

はて、この動くものの意味、メッセージは?

と、やってみる。

 

そして、そんな自分を、「うちの子は天才かもしれない!」ってなテンションで、

あなた、おもしろいわねー、とってもすてき。いずれはすごい芸術家になるかもしれない。

なんて、親バカ的に、おおげさに、褒めてみる。

褒められたわたしも、子どもみたいに、えへん、って感じに、照れつつ「天才かも」と素直によろこぶ。

 

そんなコミュニケーションをまず、自分とはじめてみてそれから、

安心なお友だちや家族やパートナーなどと接したら、その人に向けても、

「この蚊は、なんかね、こういうメッセージで今あらわれているのかも」と、

お告げを告げるみたいに言ってみる。

 

そういうユニークな遊びから、これまでとは違う自分とつながり、

これまでとは違うシュールつかつエキサイティングな会話が生まれる、そんな日になりそうです。


 

最近、早くに目が覚めるものの、また寝ている。

毎度、問いかけるのだけど、応えがない。

 

なにしたい?

おきて、なにをしたい?

 

そう問いかけるものの、今日もずっと無。

 

あんがい何もしたいことはないようで、それはただ、まだ意識が眠っているというのではなく、

ほんとうに、別段したいことはないみたいなこの頃のわたし。今朝のわたし。

 

それじゃ、もう一度眠る? そう問いかけるも、今日はそれもノーだという。

ぼくは、ちょっと途方にくれる。

 

かれこれ1時間近く、聞いているのだけども、やっぱりずっとぼんやりしていて、

さっき、ジュースをスーパー安物のシャンパングラスに注いで飲んでみる。

庭の草々が、日に輝いている。

 

草の絵をかく? いいえ。

花の絵は? べつに。

インターネットする? とくに。

猫をなでる? うーむ。

 

ずっとそんな調子にやっていて、

この人のどこかはうんと頑固だなあ、と思う。

 

あの人へメールのお返事? ちがう。

ブログをかく? うーん、そうね。

 

ということで、ここをひらいた。

 

書きたいことは、あるようなないような。

ぼくは何をしたいんだろう、何をさしだしたらよろこぶのだろう、

食べ物ではどうか、いえ、それもいりません。飲み物は? もうけっこう。

 

あるアイドルさんのことをまた思い出した。

彼はそういえば言っていた。寝る時間を削っても、仕事の前には1時間くらい自分の時間をとりたい。

その時間はなにをしているんですか? なにも。ボーッとする。1時間? うん、1時間。

その時間がないと、なにかをうまく保てないようだった。

 

何年前のインタビューでぼくはそれをきいたのだろう。

毎日のたくさんのことば、情報の海原をこえて、きょう、また彼の言葉がぼくをとらえる。

そして、しばし、目の前にひろがる光と影の緑を眺めていた。


自分と一致する

自分がハッピーでいることが大切。自分の状態、無意識レベルの自分、波動が伝播されるのだから。

「自分のハッピー」は自分にしかわからない。

良いとされるものが必ず自分にあてはまるわけではない。

好みの問題。それが個性。

 

そのためには自分を知ろうとすることしかない。

自分の状態を知ろうとすること。それには自分をみる。自分を感じること。快、不快に気がつくこと。

自分の快、不快を重要視すること。それが自分を大切にする、自分を愛するということ。

 

そうできない自分を「こうあるべき」とコントロールすることは、自分を向上させることではない。

「そうありたい」自分の「ありたい」がどこからくるのか。

社会から、親から、常識が由来なのか、自分の感覚、本心からなのか、

その見極めは、積み重なったもの、こびりついたもの、埋め込まれたものが多いほど、

埋もれているので、わかりづらい。

一朝一夕で、というわけにはいかない。

継続的におこなうこと。自分を大切にしつづけること。

 

 

ないものをあげることはできない。

自分に優しくない人が人に優しくできることはない。

自分にしていることを、人にしている。

肯定も否定もいらない。ただ、ある、ということを、存在をみとめる、みてとる、認識する。

人のことも同じ。認めるのではなくて、みてとる。

肯定しようとすると、否定もうまれる。二極性。

 

人に従うことよりも自分に従うこと。

集団、社会よりも自分、個人をまず大事にすること。尊ぶこと。

小さいことから、小さいことこそ、そうしていく。

おきたいときにおきる。食べたいから食べる。

 

「ルールに従う」ことをルールとしたいのは、ルールを決める人たちの都合による。

社会人の前にいち個人。”社会のため”は「お国のため」につながる。コントールにつながる。

服従する意識へとつながる。

あたりまえのようにそれを教えられる、植え付けられる。個人の尊重よりも前に。

その洗脳をとく。

自分でしかとけない。

人がそれをしてくれるのを待っていたら、けっきょく、”その人”に従うことになる。

ヒエラルキー制度から抜けられない。ピラミッド社会。

目に見えないカースト制度的なことから抜け出せないと苦しみから抜けられない。

ピラミッド社会には個人の尊重がない。

決められた範囲下での自由しかない。

人のくれる自由しか自由にはならないということは、不自由ということ。

人に従っている以上、ぬけられない。

 

本当はもっと自由。型などない。みんなちがう。

みんなオリジナル。自分だけのものをもっている。

 

「自分を生きることは罪ではない」(by アレハンドロ・ホドロフスキー)

 

 

パキっと目が覚めてしまい、とつじょノートにバーっとでてきた言葉たち。

ここのところ、超いろいろあり、静かであり激しい。

アレハンドロ・ホドロフスキーさんの「エンドレス・ポエトリー」という作品、めっちゃよかったです!

 


 

この気持ちいい緑のしたで、ぼくはサンドイッチを食べた。

たしかセブンイレブンで買ったのだったかな、そういうサンドイッチ。

どこかお店に入って食べるのもいいかも、と思ったけれど、

とっても暑かったが、その暑さで冷房で冷えた体をあたためてもらいたかった。

サンドイッチは、とてもおいしかった。

ぼくは、この人生のいつまで、そのようなジャンクなものを口にするのだろう。

でも、いつまでもときどきは口にする自分でいるような気がする。

好きなもののなかに、そのようなものがある自分が楽だなあ、って思う。

そういうことを思っている。

自分を白か黒かはっきりくっきりさせることなんてできないのかもな、って。

基本的な立ち位置みたいな軸があって、つよい風が吹いたときにはおおいに揺れて、

でも、ちゃんと自分のいるべき場所、自分が健やかで軽やかにいられる地点に戻る。

戻れるのだったら大丈夫。

なんだかんだと日々いろいろある、超しんどいこともたくさんあったけど、でも、最後には、

しっかりと自分の場所にもどっていた。だから今日がある。

 

自分の場所は自分の中にしかない。

物理的な場所なんかじゃなくて、時間も空間もこえた、目に見えないそこは、

ぼくの意識がつくるスペース。

 

自分のための時間をつくって、自分のためにいれた好きな飲み物をもって、心地の良い気に入りの恰好をして、

外が春だろうと夏だろうと寒かろうとそのようなものに惑わされることなく、

自分の大事な自分を、ひきつづき育んでいこう。そう思う。


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