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今日はいつになく眠い。

満月後ということもあるのかもしれない。

眠いのに外は気持ちのよい晴れ。外は気持ちのよい晴れだけど世界は大嵐の中にある。

目の前だけを見ていると平和だし、意識を外に向けると悲惨な現実がある。

マクロとミクロの両方を感じながら生きていると、ちょっと疲れるのかもしれないな。

あ。満月って、太陽と月が真逆に位置するわけだから、満月って、マクロとミクロの極みのときなのかもしれない。

 

辻仁成さんの日記が、とてもよい。

さっき初めてその存在を知り、たてつづけに3つ読んで、

ここにシェアしてみようと、辻日記を閉じた。

 

https://www.designstoriesinc.com/jinsei/daily-507/

 

コロナのあるこの世界を、自分はどう捉えるか。

外側の遠い情報にアクセスしてみてあらためてそう思った。

 

先のことはわからない。自分の命がいつまでつづくのかぼくはしらない。

今日は仕事の手をすこし休めて、ゆっくりと自分の中を整理してみようかな。

 


今日の絵

 

おとといから、アストロダイスを振ってキャッチした言葉をInstagramに投稿している。

そういうことをやってみたかったんだな、と、やってみて知っている今日この頃。

今日はその言葉を読んでから絵を描いてみた。

たぶん花。指でぐりぐりやった丸っぽい上のものに一本線を足したら花になった。

 

メッセージは、

「自分を律する。恐れと夢と両方に向き合うことが人生と向き合うこと」

というようなものでした。

 

書いたのは自分だけど、なるほどー、って思った。

不安の中に希望があるし、希望の中に不安がある。

両方あるからそれぞれが成り立つのかもしれないし、

両極があるということ、それが豊かさなのかもしれない。

両極をたゆたい、その間を揺れることが、生きているってことなのかもしれない。

だから、揺れていいんだ、と思った。


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目に入ってくる情報がかたよりがちなこのごろ。

どこもかしこも、コロナコロナコロナ。

いたしかたがないけれど、とりこみすぎないように要注意。

玄米が大事だからって、そればっかり食べてたらあれですもんね、みたいな話で。

 

五味太郎さん。

共感だったり、なるほどーだったり、とにかく面白いインタビューだった。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200404-00000004-withnews-soci&p=1

 

批判精神にとんだ文章をよむと知らぬ間に肩に力が入ってしまい、疲れる。

個人的にはフラットで、常温、適温のお水みたいな負荷の少ない文章を今は読みたい。


志村けんさん

書く必要はないのだろうけど、この気持ちを忘れてしまいたくない。

だから、ぼくは書いてみる。

 

志村けんさんが亡くなったというニュースは友だちからのLINEで知った。

画面にそのメッセージが映ったけれど、すぐに開くことができなかった。

胸のあたりに強烈な一撃があった。

人の死、お話をしたことのない、一方的に知っていただけのその人の死が、

こんなにも痛いことに驚いた。

 

ぼくにとって志村けんさって何だったのだろう?

もちろん、たくさんの笑いとたのしくて平和な時間をもらった。

東京の劇場に「志村魂」という舞台を観に行けたことは忘れられない。

テレビでやっているおなじみのコントが繰り広げられ、

ずいぶん知っているようなものたちばかりだったのに、

びっくりするくらいにおかしくって、おかしくて面白くて、

お腹が痛くなるくらいに笑った。

 

その体験は、体験だった。

目の前で実際に行われる実はものすごくシュールで、ブラックというのか、

人間のいろいろを映し出してくれるようなその世界に、

頭じゃなくて全身が笑ってしまっているような感じだった。

こんな時間は初めて、と大興奮した。

 

休憩時間のロビーはグッズをもとめる人たちでおおにぎわいで、

ぼくの記憶ではそこにいるみんなが、幸せな顔をしていた。

そりゃそうだ。だって、1年分の笑いを袋詰めしたみたいな時間がやってきて、

さらにこのあとにも待っているのだもの、幸せ以外なにものでもない。

 

もうひとつ、志村さんというと思い出すことがある。

志村さんと長年コントをしていた優香さんの撮影の日。

ご本人よりも1時間以上早く入る我々スタッフは、

優香さんといえば、みたいにして志村さんの話になった。

 

職業のちがう、感性のちがうスタッフたちが、

ひとつのテーブルに集まって口々に、志村さんってかっこいいよねー、すごいよねー、

って話した。

やってきた優香さんにも、

そのみんなを束ねてしまう志村さんの話をたしかした。

 

今に思えば失礼かもしれないけれど、

そんな志村さんとずっとコントをしているあなたってすごい!

そういうテンションで話をしていた気がする。

 

志村けんさんを近年は、熱心にテレビで追ってはいなかった。

動物の番組自体にはあまり興味がもてなかったから、

いちばん目にしやすいその番組は、ほかの番組のコマーシャル時間にちらっと見るくらいだった。

でも、それでも十分だった。

 

ぼくの中にある志村さんって、超面白いのと同じくらいに、超かっこいい人。

それから、超あたたかくて、超やさしい人。

 

容姿でもスタイルでも肩書きでもキャリアでもなくて、

そのお顔、笑顔、いや人間そのもの、その存在に、

大人になってどこか疲れてしまったぼくは、本当に癒され、希望をもらった。

 

希望は、志村さんをすてきだと感じることからもらっていた。

人間って、目に見えない心や魂みたいなものがそのまま相手に伝わるんだ。

このハゲたおじさんが、こんなにかっこいいのはそういうことだ。

そんな風に、志村けんという存在から、ぼくは生きる指針みたいなものをいつももらった。

 

生きていたってこの先お会いすることはなかったかもしれないし、

もともと熱心に番組を見ていた近年ではなかったし、

ぼくの人生にたいした影響はないだろう。

頭ではそう思える。

でも、それはぜんぜん嘘だってことをぼくは知ってしまっている。

 

今は、志村さんが亡くなった、その亡くなり方も本当にかっこいい、って思うことで、

その死を受け入れていけたらって思う。

 

実際のことはわかりようがない。

ぼくが勝手に解釈しているだけ。

でも、ぼくは思う。

この危機を国中で一丸となって乗り越えるためのきっかけを、

その命の最後に与えてくださったのだろうって。

 

今日も明日も何十年後も、志村けんさんがいたこと、

志村さんがつくったとんでもなくユニークですばらしいあの世界が、

ぼくを、ぼくたちをあたためつづけてくれるだろう。

 

志村けんさん、心より感謝をしています。ありがとうございました。


星のサイコロより つづき

今までそれが普通なのだったら、普通を忘れてしまいましょう。

普通は普遍とはちがう。

あなたがあたらしくなるように、地球の今日もあたらしい。

帰らぬきのうは懐かしむのではなくて、ありがとう。

あなたがあって、今日がある。

自分のそのあたらしさに道をゆずりませんか?

ほんとうは、待っているのかもしれません、あの頃の無邪気さが、

ぴかぴかに光りながら声をかけられることを。


星のサイコロより

自分の王国を整理して、自分のもっている、もたされている力をみつめるとき。

なにもないと思うなら、まだ整理が必要。

そんなことはない。

その感覚。たとえば雨をわずらわしいのなら、そのわずらわしいと感じる受信機能。

雨が歌にきこえるなら、雨がやさしくみえるなら、雨のリズムがここちいいなら、

そのやわらかい柔軟なユニークな器を、さらにさらに広げて、

どんな目の前の荒波にも愛をみつけることができるのでしょうね。


お籠り生活のオススメ

 

とりあえずこの数日は、家をでないを選ぶ人は多いのかもしれませんが、

お籠り生活に関しては、なかなかのキャリアがあるように感じる私。

お籠りタイムのよろこびのおすそ分けというかシェアをしてみますと。

 

長風呂半身浴がたのしいです。

風呂でできることってたくさんありますが、

半身浴をして大量に汗をかくととにかく気持ちが良い。

 

ぼくは風呂には水を1リットルから1.5リットル持ち込んで、

暇で体力的に平気なときは、それを飲みきるまで風呂に入ることにしています。

けど、無理に水を飲むのは苦痛なので、

循環というのでしょうか、まず出す。汗をかくことをします。

そうすると、おのずと水を欲しくなり、水がものすごくおいしく飲めるのであります。

 

風呂には、気分がよくなる好きな本を持ち込んだり。

ジップロックにタブレットを入れて、YouTube。

YouTubeは、その日の気分に従いますが、

たとえば、青春時代に好きだった曲を流し、カラオケをする。

あるいは、ぼくの場合は精神世界が好物なので、

好みのスピリチュアル系は厳しくないメッセージを発信している人の話をきく。

もしくは、クラシック音楽やヒーリング音楽を流し、

目をつぶって心の水面を平らにするようなイメージ。

それから、無音でインスタント瞑想を試みることもある。

 

でも、もっとも時間が早く過ぎて、

つまりはたっぷり半身浴ができるのは、長電話かな。

深刻な話などはせず、funって感じのおしゃべりをたのしむ。

気のおけない友と、そんなことをしていると1時間半とか経っていたりする。

もちろん汗をたっぷりかき、お水をたっぷり投入し、ものすごくすっきりします。

 

あるいは、ある程度体があたたまったら、

裸のまま、風呂掃除をすることもある。

洗剤を使わずとも、こすれば汚れはけっこうおちる。

ゲキオチクン、みたいなスポンジを使えばだいたいおちる。

体が冷えてきたら、また湯船につかる。

ひきしめ、あたため、ひきしめ、あたためのサウナと水風呂の調子で、

さらには、目に見えてその場がきれいになり、輝くという一石二鳥アクションです。

 

それから、落書きノートにペンをもちこんで、ポエムをしたためるのも面白い。

裸で、あたたまりながらゆったりした気分でいると、言葉もやわかいものがでてきて、

なんだかセルフほっこり。

 

あと、湯にひたりながら朗読するのもなかなかのものです。

声が響くのが気持ちが良いし、汗もよくかける。

 

そして、落書きノートとサインペンで絵を描くのもオススメ。

ぼくは、油性ペンよりも水性のものを使い、

あえて、描いた絵に水をかけてみたりもよくする。

自分らしい線みたいなものは時に退屈ですが、水を適当にピシャっとかけにじませると、

意図しない模様があらわれたりしてエキサイティング!

 

盛り上がってきたら、絵の具も持ち込むと、さらに楽しい。

絵の具は、手でぬる。手は、すぐに洗うことができるのはお風呂ならでは。

 

絵は、適当にぐしゃぐしゃやるのもいいし、

音楽に合わせて手を動かしてみるのもいいし、

あるいは、タブレットなどで気に入りの画像をだし、

それを模写してみるのもいいです。

 

昼の風呂は、贅沢な気持ちになれます。

夜の風呂なら、電気はつけず、タブレットの光だけにしたり、

キャンドルの灯りだけにするのもすごくいいです。

 

湯気のこもる空間で炎が揺れるのをただ眺めているだけで、

妙に安心できたりもして、よいです。

 

余裕がある場合は、浄化的なものを投入するのも好きです。

この間、セージの入浴剤を入れたら、めちゃくちゃすっきりしました。

アイハーブでいろいろ良さそうな入浴剤は手に入ります。

 

最近はごぶさたですが、

エプソムソルトという、塩みたいだけど別に塩ではない入浴剤もよく使っていた時期があり、

懐に余裕ができたらまた買いたいのですが、

それもまた、心身の浄化に効果的とのこと。

疲れるとは、憑かれる、という意味合いもあるらしいのですが、

憑かれによる疲れには、エプソムソルト! という話も聞きます。

もちろん、クラシックに塩を肩とか腰とか頭頂などに塗り込み、流すのもよさそうです。

 

あと、浄化ということでいえば、

自分インタビューを風呂で行うのも、とても面白いです。

インタビューは、普通の会話とはちょっと違っていて、

質問者と回答者がはっきり区別されているのですよね。

対談ではない。

 

なので、自分インタビューする時は、

自分Aから自分Bに質問をするわけです。

 

ほとんどの人は、なんらかの形でインタビューを見聞きしているかと思いますが、

ただ、あれを適当に真似てみればいいです。

 

せっかくなので、挨拶からスタートしてみます。

 

はじめまして。今日はよろしくお願いします。さっそくなんですが、最近の調子はいかがですか?

この頃、どういうことが気になっています? 

なんで気になっているかもうちょっと聞かせてもらっていいですか?

 

回答者は、沈黙してもいいけれど、なんらか応えることをルールとしてみます。

 

自分B「ああ、なんでといわれても、ちょっとわからないなあ」

自分A「そうですか。だったら、イメージだけでもいいですよ。色とかなんでも」

自分B「そういうの逆に難しい!(笑)。でも、なんか赤って思ったかも」

自分A「赤が出ましたか(笑)。じゃあ赤って逆にどういう印象??」

自分B「夕焼け。って浮かんだかな。ちょっと切ないようなそういう感じ」

 

インタビューにゴールはありません。

ただ、自分の内側の言語化未満のエネルギーを言葉にして吐き出すだけ。

これは、やってみないと「なんか意味あるの?」と言いたいでしょうが、

やってみると、ふしぎとすっきりするんですよ。

 

コツがつかめてくると、自分インタビューを”神との対話”にしてみたり、

未来で”夢を叶えた自分”に今の自分が道のりをきく、ってな、

誰にも聞かれたくないような、おかしいこともできるかと思います。

 

神との対話は、自分Aを神的な自分と設定して、

気分がでるように長老的な話し方にして、たとえば、

「お前さんはどうも浮かないようだが、なにに気持ちを沈ませとるんだ?」みたいにして、

自分Bはリトルミー的というのでしょうか、悩める人間の私で応える。

「はい。今、友だちから言われたあの一言がふいに思い出されました。それが関係しているのかもしれません」

 

未来の自分へのインタビューは、

ヒーローインタビュー的な感じというのでしょうか、

「おめでとうございます。でも、なんでこんなことができたんですか?」

という風に、インタビュアーは見上げ目線というか、

目をキラキラさせて憧れの人に話をきく感じの設定でやると、楽しいです。

 

そんなことを真面目にやっている自分は、やっぱりおかしいわけで、

ふいに、「頭おかしいわー」みたいに笑えてきたりして、

それもまた気分向上に一役買ってくれてありがたいのです。

 

風呂から出たら、ビールでもなんでも好きなものを褒美として自分に与えたらいいですよね。

ぼくの場合のそれは、ヤクルト400なのですが、

小さいヤクルトは、無意識に飲むと一瞬で終わりますが、

ぼくは高級日本酒を飲むように、めっちゃちびちび味わいまして、

そのように、「飲む」ということを意識しつづける時間を「瞑想」と捉えてみると、

たったのヤクルトを飲むだけの行為が、なんだかすばらしいことに思えてくるのでした。

 

ようするに、物は言いようだし、物は捉えようですものね。

家を出られないと思うと苦しくなるかもだけど、

家を出なくていい! って思えば、なんかラッキーっぽく思えるんじゃないでしょうかね。


アタシ問答

 3月26日は13時28分。今感じていること、考えていることをここに吐き出してみることにする。そうしないと、落ち着かない。落ち着かないのは、けれどそれこそ世界中のほとんどの人がそうではないかと思う。この状況下で落ち着ける人というのは、まったく情報が入っていない人か、自分や自分の大切な存在を含め、「死」というものを恐れていない人だけかもしれない。ぼくは、やはり、死は怖い。親がコロナに感染して死んでしまうことなどは想像もしたくない。ミッチーが死んでしまうことに耐えられる気がしない。いずれ、やがて、みんな死ぬのだとしても、でも、それを恐れずにはいられない。自分の死はまた別。この世の終わりがすべての終わりだとは目下のぼくは考えていないので、死んだら死んだで問題ないように思っている。だから、自分の死は、大事な人たちの死よりも怖くない。そう思っている。そう思いたいだけかもしれないけれど。

 

 コロナの騒動しかり、さまざまなことには答えが一つではないのだろう。外での活動の一切をやめて、外出をしないことが目下のコロナ収束の方策なのかもしれない。誰が感染しているのかが、リトマス試験紙の色が変わるように目にパっと見えるのだったら、感染している人だけが隔離されていればよい。コロナに一度かかり治った人は再発しないものなのだったら、また状況は違うだろう。でも、聞いた話によると、コロナは一度かかったら二度ならないものではないらしい。何度でもかかってしまうのだったら、とにかく感染者ゼロを目指すより他ないのかもしれない。ひとりでも残っているうちは、また広がる恐れがあるわけで、とにかくゼロを目指さないといけないだろう。

 

 外出を控えよ、とお達しが出て、東京の人がひとりも外へ出なかった場合、それを2週間継続したのちに、少しでも感染の恐れのある症状が出ている人を検査するとして、そうした場合、どれくらいのお店などが潰れてしまうのだろうか。2週間止まるとダメになってしまう生活というのはどれくらいの割合なのだろうか。そして、2週間後に完全に、一気に活動が復活するというのも考え難い。政治家の人たちは、叩かれまくっているわけだけど、実際、この事態の解決策をただひとつ、間違いなく示すことは容易ではないだろうな。だから、政治家の人たちに感謝をおぼえる。そのような重責に耐えながら、おそらくとても忙しく、大きなストレスを抱えながら働いているのに違いないのだから。一歩間違えたら、大きすぎる代償が待っていると考えると、本当にハードな任務だなと思う。

 

 外出を控えるか否か。これは、迷うところ。自分ひとりくらいいいだろう、と思ってしまう。自分は健康だし、コロナ陽性ではないだろう。だから、感染源にはならないから、いいだろう。そう思ってしまう。みんなが活動をやめてしまったら経済的に破綻をするだろうから、この健康できっと免疫力も高い自分は、活動をしていいだろう。そのような考えをしている自分がいる。でも、その考えは、全員がぼくと同じように考えて、まったく自粛的なことをせず、平常時と変わらない動きを見せることの表裏にあるとも言える。表裏というか、みんなが、なんらいつもと変わらぬように動くことを非難できないということ。自分がオッケーなのに、人はダメというのはおかしい。自分だけが特別というのはおかしい。根拠がない。たとえば、活動する自分は、感染を恐れていないとする。だから、いいのだとする。でも、では、自分の愛する人が感染して死んでもいいのか? と言われると、よくない。でも、そういうことだ。自分が活動をすることは、誰かも活動すること。そうすると、コロナ感染者はおそらく減っていかないどころか拡散されていく可能性が高い。だって、感染るのだから。そして、誰に感染し、誰にしないかの法則性は、たぶんまだ発見されていない。曖昧。だとしたら、自分が活動することによって、事態は広がる。と考えると、やはりそれは選べない。

 

 「不要不急」という言葉を初めて聞いた気がするが、一気に毎日のように目にするワードとなった。不要不急は、人に判断されることではない。なにが必要で、なにが不要か。なにが急ぎで、なにが急ぎではないか。それは、人によって違う。ガイドライン的なことは示されてもいいだろうが、でも、最終的な判断は個々人に委ねられるものだろう。政治的に「絶対に禁止」とされ、罰則などが設けられたとしたら、飲酒運転をする人が格段に減ったように、外出する人は急減するかもしれないが、そうすると飲食店などが潰れてしまうかもしれない。でも、感染者がいなくならないと、鎖国状態はつづくかもしれず、そうなると、他の業種はもちろん、さまざまな問題が生まれるに違いない。完璧な答えはないのかもしれない。思うのは、罰則的な強制力はないけれど、「不要不急の外出は避けるように」というお達しをすることは大事かもしれない。その半強制みたいなお達しにより、外出する人がうんと減るとする。うんと減るけれど、「それだと経済が破綻する!」と動く人もおそらく一定数はいる。そのバランスが大事なのかもしれない。0か100かという話ではないのかもしれない。そして、影響力を持つ人たちが、政策に賛否やらを発信することも、良いことかもしれない。何かの意見が良いということではなくて、そのように、喧々諤々というのだろうか、いろんな意見が飛び交うことが自然であり、バランスなのかもしれない。

 

 

 結局、答えはない。正解はない。ひとりひとりが、たくさんの考え方の中から、自分の本心をみつめ、自分なりの「解」をみつけるしかないのかもしれない。そして、その「解」は暫定的でいいのかもしれない。揺らいでよし。ひとつの考え方に固執すると、状況の変わるスピードがとても早い今にはついていかれないのかもしれない。柔軟であること。自分の意見にこだわらないこと。臨機応変性。

 

 この事態のポジティブな面を考えると、そういうことがあるかもしれない。それぞれが自分の頭で考えること。政府や国などに依存するのではなくて、自分が自分のあり方を考え、実行してみること。それがうまくいかなければ軌道修正をすればいい。もっかのぼくは、親がコロナで死んでほしくないから、できるだけ外出を控えようと思っている。エゴイスティックな考え方だけど、経済の危機よりも親の命の方が今の自分には大切(経済の危機が結局は親の死に至るのかもしれないが)。それくらいの視野で生きていることを残念と思う自分もいるが、けれど、それが事実。でも、不要不急に当てはまらないことには、外出もする。なにが不要か不急かの線引きは、自分にしかできない。それは、その都度自分と相談して決めるしかない。しんどいけれど、それが悔いのないあり方かもしれないと今は思う。

 


大晦日のメッセージ

毎朝アストロダイスをふって、自分へのその日のメッセージを書き出しているんですが、

今日のメッセージから受けたひらめきとして、

ここに、春分前のメッセージをダイスから頂戴する、ってのが浮かびました。

で、振ってみました。

 

 

きっちりとやってくださいね。

自分のためになることを、誰かのためになることを。

それは大それたことでなくってよくて、ほんとにただ、おはようって言葉にするとか、

おつかれさまです、のルーティーン言葉に、たっぷり気持ちを込めてみるとか、そういうことでいい。

そのことが、じゃあ何だ、と言うと、大げさに表現するならば、「使命」ってことみたいです。

 

使命なんて聞くと、マザーテレサみたいな壮大な感じが浮かぶんですが、

宇宙において、規模なんてないみたい。

ただ、そのとき、その瞬間にどうあったか。それだけ。

 

正しいか間違っているかではなくって、

やさしいか、やさしくできないか。

愛の自分か、アローンな自分か。

 

残念ながらか、それが自由というものなのか、

機械のように、一度onにしたらずーっとonになるわけではなくって、

そのときどきに、気付いたら意識をいれなおす。

愛ね。やさしくいよう、自分にもこの人にも。

って、都度都度していく。

 

でも、それは同じことの繰り返しにみえて、らせん状というのでしょうか、

同じことではない。それを成長とか進化と呼ぶことで、気分がいいなら、成長だし進化だし、

そういう言葉がプレッシャーになるなら、エンドレスあるがまま、というか、

エンドレスLet it beみたいなね。そういう感じで。

 

みなさん、よき春分(星的ニューイヤー)を!


静的よろこび

 

ぼくはこんな感じなので、家を出ないことが全然苦にならない。

家から一歩も出ないまま1週間とかもまったく平気。

やれることはたくさんある。

 

自粛。と聞くと強いられている感じがしてストレスだけど、

そのように個人と世界とをわけずに捉えてみる。

こうした時世もまた、内なる自分のアイディアと捉えてみる。

私と世界を分けないでみる。

 

外出を控えよと大きなぼくが言うのはなぜ?

それは、外と遊ぶばかりではなく、内と遊んでみましょう、ということかもしれない。

刺激は外から取り入れる動的なものだけではなくて、

じっとして目をつぶって静かに座ってみる、静的エキサイトもある。

 

たのしむポイントを最近発見したのだけど、

言葉にするのはむつかしいが、

じっと座ってなるべく無を努めていると、感覚が変わるのがわかる。

目をあけて動いているときには感じられないような何かを感じる。

それがなにかはわからないけど、今思ったのは、「安心」かもしれない。

 

これはチャンス。

来年からやってくるとされる風の時代へ向けて、

new eraに自分をチューニングさせてくれるまたとない機会と思う。

ぼくはそう思うことを選んでいる。


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